自由学園について
自由学園とは?100問100答 - 幼稚園・小学校・中学・高校・大学部・45歳以上【一貫教育の自由学園】
自由学園について
『自由学園とは?100問100答』は、自由学園について、さまざまなご質問を頂くことにお答えするための冊子で、2010年に発行いたしました。自由学園の教育理念、歴史、生徒・学生の学びの姿、教科の特色、関連団体の活動や学費などの詳細を問答形式でまとめたものです。2016年に本文を一部改訂の上Web化いたしました。2020年も部分的に再改訂を進めております。
自由学園はキリスト教を柱とし、「生活即教育」をモットーとした教育理念を100年にわたって貫いてまいりました。「どれほど多くの知識を暗記しているか」ではなく、「いかに自ら学び自ら考える力を育てるか」という点を重んじており、加えて「共に生きる社会を創るための学び」へとつながることを願っています。この『100問100答』によって、その一端をご理解いただければ幸いです。
私たちは今、「時代を超えて何を変えず」、「時代の変化の中で何を変えていくか」を問われていますが、この冊子の内容にも時代を超えて変わらない精神・理念の部分と、時代の変化の中で形を変える性格のものがあります。大きくは、第1章から第4章の理念の部分までは前者であり、第4章以降の具体的な形からは後者に属すると考えます。後者の部分については、建学の精神を損なうことなく、その時代にあわせて最も望ましい姿へと次の世代が改革をしてくれることを期待しつつまとめました。
「発行に際して」全文はこちらをご覧ください。
羽仁もと子・吉一夫妻によって設立された自由学園は、2011年に創立90周年を迎えます。
創立者が逝かれて半世紀余、多くの課題に直面しながらも、大勢の方々に支えられて、自由学園はその独自の歩みを進めてきました。
今、100年に一度といわれる世界規模の大きい価値観の転換点に立っています。
90周年を迎えた時、その10年後の100周年における自由学園の姿を考えておくことはもちろんですが、更にそこから次の100年へと歩みだす準備をも整えておかなければなりません。それが私たちの責務であると認識しています。その第一歩として、自由学園の教育の本質をわれわれ自身が再確認すると共に、自由学園の教育に関心をお持ちいただいている方、現在はあまりご存じではない方に、「自由学園とは何か」を知っていただくため、一問一答形式の冊子を準備してまいりました。
私たちは今、「時代を超えて何を変えず」、「時代の変化の中で何を変えていくか」を問われていますが、この冊子の内容にも時代を超えて変わらない精神・理念の部分と、時代の変化の中で形を変える性格のものがあります。大きくは、第1章から第4章の理念の部分までは前者であり、第4章以降の具体的な形からは後者に属すると考えます。後者の部分については、建学の精神を損なうことなく、その時代にあわせて最も望ましい姿へと次の世代が改革をしてくれることを期待しつつまとめました。
もとより、この冊子だけで自由学園のことを十分にお伝えすることが出来るとは思っておりませんが、自由学園への理解と関心を深めていただく一助となることを願っています。
この冊子をあえて一問一答形式にしたのは、ご関心のある事項を探しやすくするためです。巻末の「問一覧」「索引」も活用して読んでいただければ幸いです。
この『自由学園とは? 100問100答』は、自由学園のことをまず個別具体的にご理解いただくために、まとめたものです。
いわば、自由学園への手引書とも言えましょう。しかし、私たちの目的はそれだけではありません。現代社会にあって、自由学園が存在し活動する意義を再確認し、その理念を社会に提案し、より良い社会をもたらす上で役立ちたいという、強い思いのもとで綴りました。
画一化の波
現代の日本人は、自由を謳歌しているように見えながら、実は自由を失いつつあるのではないでしょうか。テレビ、インターネットなどのメディアによって同じ情報を得て、同じ解釈に影響され、類型化した判断を下している。画一化の波は、真の自由から個を遠ざけようとしているように思えます。
教育における画一化の影響は、最も深刻です。中央集権化した教育制度によって、教育の内容は画一化され、子どもたちは単線化した上級学校へ階段を無事登りつめるため、受験勉強のドリルにせっせと励んでいます。彼らが受け取る試験用紙の裏には、大人たちの用意したパターン化した「正解」があり、その「正解」をできるだけ速く、かつたくさん引き出した者こそが優れた生徒とみなされる仕組みです。
しかし、この世にあるさまざまな問題には、ひょっとしたら正解のないものもあるかもしれない。また、正解は個人々々によって異なるかもしれない。自分の正解を求めた者こそ、他の人間にもそれぞれの正解があることを知ることができましょう。
簡単には正解が見出せぬものが多いにもかかわらず、子どもたちや学生たちは正解が必ずあるという考えに、いつの間にか馴らされていく。社会に出ると、まず探すのはマニュアルであり、自分の頭で物事を考えようとはしない。ですから、マニュアルにない困難が生じたとき、途方に暮れる場面がしばしば訪れます。
いま日本全体が、「あるはずの正解」を見失い、途方に暮れているのかもしれません。
学問は、百科事典に記されているような知識を詰め込むことではありません。生活の中で「どうして?」という疑問をいだき、それを解くべく行動し、必要な知識を求め、さらに次の疑問へと進む。これを積み重ねていくことこそが、学問の真髄なのです。したがって、知識とは、自分の方法で発見していくことによって積み重ねられた、自分仕様のデータのことです。
自分で問題を発見し、その原因を追究し、自分の正解を見出すためには、強靭な体と、簡単には諦めない愚直さが必要です。さらに仲間と協力していく精神も不可欠でしょう。体を鍛え、いやなことにもまず取り組んでみる。そして、仲間の力を信じる心が求められているのです。
生きる力
子どもたちの、生きる力が問われています。生き抜く力と言ってもいい。現代の子どもたちは、その生き抜く力を失いつつあるのではないでしょうか。ありあまる既成の情報の前で、立ち往生し、何を拠りどころにして進んでいけばよいのか分からずにいる。
それは、売り場に溢れる既製服を前に、どれを買えばいいのか迷う人の姿にも似ている。買う必要もないのに、買わざるを得ないのではないかという強迫観念に囚われている人にも似ています。自分が身につける服は、実は自分でオーダーするか、あるいは自ら作るしかないことも知らずに。そして、ついには、買うことを止めて、ドロップアウトしてしまう。
自分の物差しを持って、自分の身の丈を、仲間のそれを、そして目の前にある事象を測る、自分たちのコンパスを用いて、薄暗がりの海を進んでいかなければならないのに、子どもたちだけではなく、親たちまでもが、世の中の物差しに頼ろうとする。実は、その世の中の物差しは、時代々々によって、変形してしまう、移ろいやすい代物であることをも知らずに。
自分の物差しをしっかりと携え、自分の問題を発見し、その原因を追究していける力のことを、仮に「問題追究力」とするなら、自由学園はそれを育てる教育を柱として、ほぼ一世紀に及ぼうとする歳月を重ねてまいりました。
「どうして」と素直に問うこと、これこそが学問の出発点です。問題追究力を獲得する入り口です。自由学園の広いキャンパスには、生徒や学生ひとりひとりが「どうして」と問うテーマがたくさん待っています。キャンパスを訪れる野鳥たちは、どうして同じ周期の行動を繰り返すことができるのか、学園中央に広がる大きな芝生には、同じ日当たりなのにどうして生え具合いの良い部分と悪い部分が生じるのか、寮生活ではどうして先輩はあのように厳しいのか、下級生はどうして言うことを素直に聞いてくれないのか、農場の牛たちに元気の良いのと悪いのとがいるのはどうしてなのか……。
幼児生活団(幼稚園)から初等部、中等科、高等科、最高学部 (大学部)へと一貫教育の道を歩んでいくにつれ、この「どうして」は、より高度な段階へと発展し、学生たちは自分で問題を追究する力を備えて、社会へと旅立っていくのです。
功利主義の弊害
画一性と並び、現代日本の第二の病弊は、功利主義の蔓延にあります。「きれいごとを言っても始まらない。自分が得をすればいい。そうすれば勝者になれる」という考え方が、なんと広く、根深く、社会の隅々にまで浸透していることでしょう。
だが、教育の真の目的は、世の中に出て、得をする人間を育てることのみにあるのでしょうか。
教育にたずさわる多くの人々は、生徒や学生たちが「豊かで幸せな人生を送ることができるようにしたい」と口にします。しかし、その「豊かさ」とは「幸せ」とは一体何なのか。そのことを突き詰めて考えたことが、本当にあるのか。
人に勝ちたいという競争心、負けたくないという闘争心は、人間の本源的な欲求であります。それを否定するものではありませんし、それがまた社会の進歩を促すモチベーションになってきたことも事実です。
しかし、人間にはもう一方で、人とかかわり合いたい、できるなら他人のために役立ちたい、社会のためになりたいという欲求もあります。これを「他」を思いやる心、「公」に尽くしたい心とみなすなら、現代社会はこの心をあまりにも軽んじ、ときには無視すらしてきたのではないか。
たとえ金銭的に恵まれようとも、高い社会的な地位を得ようとも、多くの自由な時間を持つことができようとも、他を思いやる心や「公」に尽くしたい心が満たされなければ、胸の底にある空虚感を取り除くことはできないでしょう。
強靭な体、簡単には諦めない愚直さ、仲間の力を信じる心を持つ人間に、自由学園はいったい何を期待するのか、と問われるなら、「良い社会を作るため自らを役立ててほしいと願うこと」と答えます。「私」はもちろん大事ですが、それだけではなく「公」の役に立つという志を持つ人間を作り出したい、と願っているのです。
エリートとは何か
どの国にもエリート教育というものがあります。エリートの最大の条件は、時と場合によっては、自らを犠牲にする精神を有しているかどうかです。知識の量だけが優れている、いわゆる"エリート"は、真のエリートではありません。
エリート中のエリートとされる人たちが、多くの不祥事を起し、社会的な信用を失う出来事が頻発しています。彼らは実は真のエリートではなく、自分の利益に目を奪われた似非エリートであったのではないか。
自分が得をするため、皆が"エリート"を目指す。そんな"エリート"が溢れ返る時代に、真のエリートが消えていったとは、なんという皮肉な現象でしょうか。
自由学園の卒業生がなしうる貢献はごくごくわずかかもしれませんが、文武両道の力を生かし、少しでも社会を良くしていきたいという思いでは共通しています。つまり、ささやかではありますが、「真のエリート教育」をこの学校で具現しようと私たちは願っているのです。
この『自由学園とは?100問100答』を土台として、私たちは自由学園の理念と、それを具体化した活動内容を、社会に発信していくつもりです。
創立者は、自由学園を「社会に働きかけつつある学校」と定義しました。その精神を受け継ぎ、自由学園が現代社会に存在し活動する意味を、これからもたゆまず問いかけていくつもりです。
1.自由学園の教育の特色をひとことで教えてください。
人間の能力を知識の多い少ないという点だけでは判断せず、人間にはいろいろな可能性があるという認識の上に立った教育です。学力の優れた人もいれば、運動能力の高い人もいる。友だちと協力して、ことを進めていくのが得意な人もいる。忍耐強く仕事を続けることのできる生徒もいる。いろいろな能力を育て、かつ、ひとつだけに偏ることなく、人間の総合的な力を育てることが自由学園の教育の目的です。 学園で学びたいという意欲のある人ならば、「一人ひとりがそれぞれの居場所を見つけられる教育」であると言えます。(コラム1参照)
自由学園は、天真爛漫にして本気な少女少年を歓迎する。自ら進んで自らを教育せんとする気概ある少女少年を歓迎する。
自由学園は、かくの如き人々の真の成長を助けるために、工夫をこらし力を尽くし、日々に新たに自ら成長し発達しつつある所である。
羽仁もと子著作集
第19巻『友への手紙』「大器晩成型と生意気型」
2.自由学園の教育はキリスト教精神に基づいていると聞きますが。
創立者の羽仁もと子・吉一夫妻は洗礼を受けた熱心なクリスチャンで、特に植村正久(*1)から信仰上の多くの教えを受け、導かれました。「自由学園には先生はありません。おとなも子どもも皆お互いの長所を学びましょう。ただ一人ここに変わることのない先生があります。それはキリストです。」「自由学園においては、言論・思想・信仰その他何ごとについても個人の自由を尊重します。」「自由学園の今もっている立場は、すでに明らかにしてある通りキリストに従ってゆこうとすることです。」(*2)と創立者は述べています。
自由学園は、目には見えないけれども、神さまが私たちを守り導いてくださると信じている学校です。それはまた、神さまが私たち一人ひとりをかけがえのない存在として生かし、その人でなくてはならない使命を与えてくださっているという信仰です。
日本の多くのキリスト教主義の学校(いわゆるミッション・スクール)と自由学園との違いの一つに、自由学園は外国の教会や宣教師によって創られた学校ではないということがあります。
(*1)植村正久1858-1925
明治・大正時代の日本を代表する牧師・神学者。開校の時、「名前は何にした?自由学園、それはいい名前だ。それでやりなさい。」と言って下さった。
(『自由人を作る』「幽玄なる言葉」より)
(*2)羽仁もと子著作集第18巻
『教育三十年』「それ自身一つの社会として生き成長しそうして働きかけつつある学校」
3.なぜ校内に礼拝堂がなく、学校専属の牧師(宗教主任)がいないのですか。
朝の礼拝(男子部)
創立者は教会員でしたが、信仰はある特定の場所(礼拝堂)や特定の時間(学科としての宗教の時間)にだけ限定されるものではないと考えました。つまり、勉学を含む生活そのものが信仰を育むところでもあるということです。
礼拝堂もなく、また牧師もいませんが、各部とも毎朝約30分の礼拝の時間を持ちます。講堂や体育館に集まり、讃美歌を歌い、聖書を読み、専任の教師全員が交代で司会者となり話をします。教師の話は、聖書に関するものであったり、日常の生活から考えていることであったりで、生活とかかわりのある話をすることが多くなります。初等部(小学校)では、聖書は読まず、教師が話をします。
女子部・男子部(中学校, 高校)では週に1回生徒の委員長たちが、また最高学部(大学部)では週に3回学生が交代で司会をします。また、礼拝の最後に女子部・男子部では日番(にちばん:各クラスのその日のリーダーで全員が順番に担当する)が全員の前で感想を述べ、生徒委員が出欠席の報告をします。
イースターやクリスマスには牧師による礼拝を行なっています。
4.自由学園では、教会に行くことや洗礼を受けることを勧めていますか。
自由学園は「目には見えないけれども、この世には神さまがいてくださり、私たちを守り導いてくださっていると信じている」学校です。しかし、信仰を強制することはなく、入学に際してもクリスチャンであるか否かを問題にすることはありません。日曜日の教会の礼拝出席を義務づけることはせず、各個人に任せています。したがって、洗礼を受けることを強いることもありません。
5.自由学園の教育にとって大切なことは、どのようなことですか。
「日々の生活の中から学ぶ」ことを大切にしています。知識は人間にとって大切なものですが、学んだ知識がただ知識として留まってしまっていては意味がありません。学んだ知識が生活の中で活かされて初めてその人にとって力となると考えていますし、生活する中で抱いた疑問や発見したことを「なぜ?」と考えて学んだ知識が、その人の「生きる力」になると考えています。 自由学園では、このことを「生活即教育」といっています。
6.「日々の生活から学ぶ」ためには家庭との連携が必要となると思いますが。
自由学園が目標とする教育は、学校だけでできるとは思いません。家庭の自由学園教育に対する理解と共感の上に、家庭と学園との日頃の交流が重要です。自由学園は創立以来、家庭との良き連携を重要視してきています。(コラム2参照)
「生活即教育」は学校での生活だけで行なわれるのではありません。24時間の生活のすべてが対象となる自由学園の教育では、学校においてどのような生活や学びをしているのかについて、家庭でもよく知っていただき、家庭や寮にあってどのように生活することが大切かについて、理解をもっていただくことが必要になります。
自由学園では創立後しばらくしてから「父母会」(現在は「保護者会」)という組織ができ、家庭は学園と綿密な連携をはかっています。定期的に学園で集まり、教師から学園全体やクラスの現況を報告し、家庭と話し合います。中等科以上では、地方ごとの保護者会も開催しています。
創立者は「『自由学園』の創立」という一文(『婦人之友』1921年2月号)で、「家庭と学校」の関係を次のように述べている。 「ご両親は自由学園の教育主義に十分ご賛成下さって、親の教育のよい手伝いとして、熱心に自由学園を選んで下さるという思召しをお持ち下さること。お子さん方の教育の責任は、どこまでも家庭にあると思います。家庭から子供をとってしまい、子供からその自由な生活をとってしまっているような今の子どもの学校生活には、私どもも長い間困って来たのでございます。自由学園は、お子さんをおよこしになるご家庭のよい助け手であり、殊に子どもおのおのの自由な発達のために、よいお友達になることを誇りとしたいと思います。」(旧字・旧仮名づかいを新字・現代仮名づかいに改めた。)
7.「日々の生活から学ぶ」教育を実践するために、どのようなことをしていますか。
ひとつの理念の元に、成長過程にあわせた継続した教育が重要であると考え、幼稚園児(幼児生活団幼稚園)から大学生の年代(最高学部)までの「一貫教育」をしています。
知識習得のみが目的であれば、それぞれの年代で必要とする知識を得るのに適した場所を選択していくことも有効だと思いますが、自由学園が行なう人間教育は、短い期間で身につけることは困難であり、成長段階にあわせて体験と学びを積み上げることが欠かせないと考えています。
このことは、自由学園の教育を理解していただくために、極めて重要なことですので、第4章「自由学園の一貫教育」で改めて説明をします。
8.自由学園が少人数制をとっているのはなぜですか。
自由学園は幼児生活団(幼稚園)から最高学部(大学部)までをあわせても800人規模の小さな学校です。少人数制で教育を行なうことは、自由学園の人間教育にとって、一貫教育とあわせて大切なことだと考えています。そして「小さい学校」であることを誇りにしています。
集団生活を重視する自由学園では、教室の中で学ぶカリキュラム以上に、上級生と下級生が生活を共にして、互いに助け合い、教え合い、学び合うことが貴重なものとなっています。集団生活において、互いに「協力」することと「切磋琢磨(*3)」することは、自由学園の教育の真髄といってもよいでしょう。
クラスの友だちだけではなく、年上・年下の年代層の多くの人たちと、長い期間を共に生活することにより、生涯を通じた交友関係を持てることも、自由学園の一貫教育と少人数制によるものと考えます。
(*3)切磋琢磨 互いに磨きあうこと
9.集団生活の中で上級生と下級生とが学びあうということについて教えてください。
創立者は、「教育は交わりである。よく交わるものはもっともよく教育される。おとなが子どもを教えるのでなく、共に交わりつつお互いに教育される。 人間のよき交わりは、相互いに心をこめたよき生活のなかにある。…」(*4)と言っています。
たとえば、初等部(小学校)での毎日の昼食は、全員が一堂に会して食事当番の保護者の方々と職員による
手作りの食事をいただきますが、ひとつのテーブルを1年生から6年生までの各学年ひとりずつで囲み、最上級生の6年生がテーブルマスターになってテーブル全体に目を配ります。
「私も早く、テーブルマスターの○○さんのように、なりたいと思った」と、2年生が日記の中に書いて、勉強報告会の時に皆の前で報告をしていました。
男子部の寮である「東天寮」(とうてんりょう)では、高等科3年生が室長になります。特に新学期は「新入生部屋」がつくられ、高等科3年生が新入生の生活と勉強の面倒を見ます。
卒業式のお茶の会で一人のお父さまが、10年前にお子さんが寮に入ったとき、心配しているご両親あてに室長からお子さんの様子を知らせる手紙が届いて安心したと、その手紙を手に「この手紙はわが家の家宝です」と話されていました。
(*4)羽仁もと子著作集第18巻
『教育三十年』「教育は交わりである」
10.生徒の数に対して教職員が多いと聞きましたが。
教職員は生徒・学生との直接のふれあいに時間をかけています。教師は、教科教育に努めることはもちろん、生徒たちと一緒になって礼拝や食事の時間を過ごします。
また、日々の生活の中での交わりで、生徒・学生たち一人ひとりの個性を把握しながら、彼らが主体的に自治生活の運営ができるように、相談したり報告を聞いたりしています。これは、いわば「手づくりの教育」と言っていいでしょう。このため生徒数に対して、教職員の人数は一般の私立校より多くなっています。
(1で申し上げた、自由学園の教育の特色である「一人ひとりがそれぞれの居場所を見つけられること」ということも、一貫教育と少人数制に加えて、この教職員の体制があるからできることだと考えています。
11.生活を基本とする教育を行なうために、どのような環境を整えていますか。
南沢キャンパス全景
広いキャンパスを挙げたいと思います。その広さは10万㎡(3万坪)で、生徒一人当たりの面積は100㎡と、都内一貫校の中でも大変に広いキャンパスを有しています。
このほかに、埼玉県飯能市の名栗(なぐり)で、植林地(10万㎡)を運営しています。加えて、現在は「新名栗フィールド」と称して、地域の方々と協力しながら周辺地域の混合林の植林、育林活動に携わっています。生徒・学生たちはその地に行って広い自然の中で生活をし、汗して働くことによって多くのことを発見して、自分たちが生かされていることを実感していくのです。
これらのキャンパスは、「生活即教育」を実践するために不可欠な場として、自由学園の発展にあわせて整備してきたものです。(27参照)
*学園が所有する校外の教育施設のうち、那須農場(53万㎡)、栃木県黒羽(くろばね)植林地(11万㎡)での活動は、2011年3月に発生した東京電力福島第一原子力発電所の事故以降、
最高学部(大学部)学生を除いて(参加には本人の希望と両親の承諾が必要)一切停止しています。
1941年に開場。男子部の生徒の手で開墾された。酪農を主体として運営されるようになり、高質な牛乳を生産するとともに、自由学園の人間教育に欠かせない全校の学びと体験の場となっていたが、2011年3月の東日本大震災で発生した福島第一原子力発電所の事故による放射能被害を受けた。除染を経て、現在は職員により酪農を行っているが、教育施設としての機能は停止している。
12.広いキャンパスの維持管理は、どのようにしているのですか。
主として生徒・学生たちの手に任せられ、「生活即教育」の実践の場になっています。たとえば、キャンパスを担当範囲に分けて、「自治区域」(コラム4参照)と呼んで、自分たちの労作により治め、大切に護(まも)っています。そうしたことを通じて、時代を経て受け継がれてきた環境を自分たちの大切な資産と思って、それぞれが任せられた区域の清掃など維持管理に責任を持つことから、多くのことを学び、自信をつけていきます。 「自治」は、自由学園の教育の大事な柱であり、教育理念である「生活即教育」にも結びついているのです。 加えて、協力会(*33)会員ボランティアにより、年数回キャンパスの維持管理活動も実施されています。
自由学園の10万㎡(3万坪)のキャンパスの維持、清掃は、特に危険な仕事を除きすべて生徒の手によって行われている。昭和26年(1951年)に、創立者の提唱により、この維持、清掃、整備の仕事を各クラスごとに担当する「自治区域」制度が設けられた。全キャンパスが各部の校舎を中心とした区域に分けられ、女子部はクラスごとに、男子部、初等部は縦割りの組織で、その区域を分担して維持している。 幼児生活団、初等部では、保護者の方々にご協力をいただいている。
13.生徒の自治組織は、どのように運営されているのですか。
最高学部(大学部)では2年生、女子部・男子部だと高等科3年がリーダー・クラスとなり委員会を構成します。委員長、副委員長、寮長は、該当するクラスの全員が順番に数名ずつ被選挙人となり、生徒・学生全員の選挙で選ばれます。
委員会は、自治の具体的な計画を立て、生徒全員がその指揮の下で運営に参加します。
委員になって公の責任を負うことは、生徒・学生にとって自らが成長するための良い機会になっています。
一年間を女子部は5期間、男子部は6期間、最高学部(大学部)は3期間に区切り、クラスの全員が順番に委員となり、それぞれの期間、活動します。
たとえば、男子部では中等科1年生は鍵の開け閉めを、2年生は掃除道具の管理を担当します。(コラム5参照)
そのほか、女子部、男子部の各クラスは毎日交代で一人の「日番(にちばん)」を出します。日番はクラスのリーダーとして一日クラスをまとめます。また、出欠席の確認、話し合いの司会、授業の始めと終わりの挨拶など、クラスの自治運営を任されます。
初等部(小学校)も毎日「当番」がでて、その日のクラス全体のことをまとめます。
日番の司会によるクラス懇談(女子部)
14.自治生活の中で、生徒たちはどのように人間関係を学んでいくのですか。
たとえば、クラスの中に5~6名ずつのグループを作って「家族」と呼び、生活と勉強の基本単位としています。その中で、気の合わない人ともどうしたら互いに否定してしまうことなしに協力できるかを学びます。「家族」内ではお互いの健康やいろいろな心配ごとなども話し合って共有し、お互いの理解を深めようとしています。
15.「家族」について、もう少し詳しく教えてください。
社会の中の一番小さい単位が家族であるように、学校というひとつの社会の中に、最小単位として「家族」を設け、「家族」単位で日々の生活や学びをするとともに、他の家族とも協力して、学校という社会をよくするという考えで営まれています。
創立者が自由学園を創立するときに「家族」について書いていることを引用します。「三十人の生徒たちを六人ずつ五家族に分けて、めいめい一人ひとりの自分としてのほかに、自治的に家族的な生活を営むことを奨励したいと思います。そうして、その家族は半年に一度ずつ代わって、違った友達とまた家族になるようにします。
ひとつの家族は相互(あいたが)いの健康にも、学問の進歩にも、気分にも気をつけ合って、共に進歩して行くように、各々の家族の間に起こる様々の出来事を利用して、生徒たちの年齢の進みに従って、家族というものにたいする義務や責任や、それによって助けられること、受ける利益や楽しみや苦しみや、美しい有意義な犠牲の精神などを、実際に味わうことができるように助け導いて行きたいと思います。気の合わない人とも、どうしたら互いに自己を没却することなしに親しんで行かれるかを学ぶことができましょう。他の家族との間の親睦や助け合い、そうして自由学園という一つの社会を、美しく有用に進歩させて行くことは、めいめいにできる仕事であることを実感させ、またいろいろの機会を利用して、その限られた自分たちの自由学園という一つの社会の、広い一般の社会に対する自覚と責任とを具体的に感ずるようにして行きたいと思います。」(*5)
(*5)『自由学園の歴史Ⅰ』「自由学園女学校」
16.「生活即教育」を標榜していますが、生徒たちはどのようなことをするのですか。
12で述べた「自治区域」はその実践の一例ですが、他の例として女子部での昼食づくりがあります。毎日学年ごとに交代してクラスの半数の人数で女子部全体300人分に近い昼食をつくります。男子部では週に一度高等科2年生が男子部全員の昼食をつくります。この料理の勉強は単なる調理の実習ではありません。生徒リーダーは、事前に家庭科の先生と綿密な打ち合わせをし、タイムテーブルと手順・分担を決め、クラスで協力して時間内に料理から配膳まで終わるように工夫をします。
料理は一例に過ぎません。計画の立案や仲間との協力は学園の教育のすべてに貫かれています。
学園での生活時間は、初等部では音楽と鐘、女子部ではチャイム、男子部では板木(ばんぎ)(*6)で、毎日交替する「時の係」の生徒が全員に知らせます。
このように自由学園では、生徒が自分たちの生活を自分たちで作り上げています。
生活即教育の実践は、自由学園教育の中核です。第5章「自由学園の生活」で説明します。
(*6)板木 吊り下げられた厚い板を木槌で力一杯たたくことで乾いた音がでる。男子部の初期は秋田名物の太鼓を叩いて時を知らせていたが、羽仁吉一の「男子部での生活は禅寺のごとく質素なものにしたい」という考えによって、禅寺で使われている板木がとり入れられた。
17.教室の中での勉強はどのようになっていますか。
数学については初等部の算数の段階から、単に計算の手続きだけでなく数の性質を発見しながら、より深く学ぶことに力を入れています。
国語教育には全校で特に力を入れていますし、英語教育についても同様です。創立者は、「頭脳を整理し、その整理された頭から出る明晰な言葉を使いうるため、その頭をもって人の話を確かに聞きうるためです。それを以てすぐれた人々の残した書物を読み、めいめいの生活や思いの中から実験したことを照らし合わせ、考え合わせてゆくことを努めあっていく」(*7)と言っています。
初等部・女子部及び男子部の中等科、高等科の科目は、文部科学省による「学習指導要領」に準拠していますが、それぞれの学び方に、自由学園らしい工夫がなされています。
(*7)1989年度『自由学園要覧』「学科の勉強」
18.自由学園らしい工夫とは、どのようなものですか。
たとえば国語では、ただ漢字を覚えたり本を朗読したりするだけではなく、自分の経験を「夏休み報告書」(コラム6参照)にまとめて全員の前で朗読したり、新年に立てた自分の志を「新年言志(しんねんげんし)」(コラム7参照)や習字で表したりしています。
また全校の前で自分の感想を述べたり、報告したりする機会が多くあります。これらは、大勢の前で自分の考えや経験をしっかりと伝えるよい訓練になっています。
また、中等科では自分の名前に使われている漢字の由来を知り、勉強の発展として、篆書(てんしょ)(*8)体のハンコ作りを実施することもあります。
「習字」は時間割には入っていませんが、女子部と男子部の全員が毎週自分で言葉を選び、毛筆で半紙に清書をして提出します。習字の言葉は生活と思想を結んだものや、思索の過程の発信などで、半紙一枚に表現したこれらの作品は、一人ひとりの成長の歴史となっています。書かれた言葉や字体のよいものには、「天」「地」「人」(「天」は十数年に一枚出るか出ないかの貴重なものです)が与えられます。週に一度、昼食の時に教師が講評して、互いに学び合うことで後輩たちへのメッセージとなっています。(「コラムA 習字に見る思索と成長」)
「理科」では緑豊かな校内での樹木・草花の栽培や観察、海や山での校外学習などで「本物を観る、本物に触れる」こと、理科室での実験など、机上での暗記ではない授業を組み立てています。
教科全体では予習よりも、復習を大事にしており、教室で勉強したことがしっかり身につくようにしています。
創立2年後の1923年9月、関東大震災の直後に学校に戻った生徒たちには、避難の状況や家族の生活を聞きたい気持ちが強くあった。創立者は、一人ひとりが報告書を書いて全校の前で、震災体験を読むことを提案した。湘南や房総の生々しい様子、汽車の不通箇所の多い中を北海道から1人で旅をして帰ってきた中学1年生の報告を始め、沈着で勇気ある内容に心を打たれた1週間の報告会になった。(『自由学園の歴史Ⅰ』)現在も、女子部・男子部・最高学部(大学部)では、夏休み中の体験や思索を報告書にして全員の前で読み、体験や学びを共有している。
女子部・男子部・最高学部(大学部)では、全員が新年の志を「新年言志」として文章に書き、3学期の始業式の後に、各部ごとに全員で聞きあっている。また、この志は「書き初め」に書いて貼りだし、全員で見合い、教師が講評をしている。
(*8)篆書 漢字の一体。楷書・隷書のもと
習字に与えられる天・地・人の印(昭和17年より使用)
19.自由学園は知識の習得ということを、どのように考えているのですか。
「学問」という言葉があります。これは「学」と「問」の異なる言葉の合成語で、学は「まねぶ」、つまり先人や先輩、先生から教えられた定石を繰り返し真似し、身に付けていくという意味で、「問」は文字通り「どうして」と問うことです。聖書にある「叩けよ、さらば開かれん」の門を叩くことです。
自由学園は、この「どうして」を大事にします。そして、自由学園のキャンパスには「どうして」がたくさんあります。芝生にも生え具合のいいところと悪いところがあるのは「どうして」、先輩は「どうして」厳しいのか、後輩は「どうして」言うことを聞かないのか……。生徒一人ひとりが、それぞれの「どうして」を追求していく。それが真の学問ではないでしょうか。
そして、大事なことは、「どうして」のかなりの部分が、理屈だけではなく、驚き、怒り、悲しみ、喜びなどの感性から生まれてくるということです。
感性を豊かにするほど、「どうして」は多くなる。その感性教育の部分を担っているのが、美術教育であり、音楽教育です。だから、感性を育てる教科は、絶対に押し付けであってはなりません。生徒たちの感性を全方向に開いてやる、自由闊達 (じゆうかったつ)(*9)な世界を与えるものでなくてはなりません。
(*9)自由闊達 何事にも束縛されず、心が広くのびのびとしていて物事にこだわらないさま
20.美術や音楽の教育で、自由学園らしさはどのようなところに現れていますか。
美術も音楽も生活に結びついていることと、在学中を通して全員が何らかの形で音楽や美術にかかわり、それを、全員で協力してグループで取り組むことが特徴です。
美術では春の新緑や秋の紅葉が美しいキャンパスで写生をしたり、女子部では食堂で使うテーブルセンターを制作したり、男子部では入学した1年次に教室で自分が使う机と椅子を木工で作ったり、生活に結びついた作品を制作しています。
自由学園の美術教育は、自然や芸術作品から物の美しさを直接感じる感覚を育てます。自分の中からも美しさを生活の中に表現し、創造できるようにしたいという創立者の思想に共鳴した、「自由画」の提唱者である山本鼎(かなえ)先生が創立直後から指導にあたられました。その後も、美術と音楽は優れた専門家に指導をお願いするという創立者の考えで、各界で活躍される専門家(コラム8参照 )から直接指導を受けてきました。
自由学園の美術教育の基礎は、1931年(昭和6年)に女子部卒業生二名が卒業直後にチェコとドイツに留学、特にバウハウス草創期の美術教育家、ヨハネス・イッテン(*10)との親交を通じて得た知識と技能によって築かれ、現在の「生活工芸研究所」(コラム9参照 )の活動にも引き継がれています。生活工芸研究所の所員たちは学園の美術の指導にもあたっています。
音楽でも第一線で活躍されている専門家の指導(コラム8参照 )のもとで、オーケストラで演奏をしたり、高等科以上の生徒による混声合唱をします。初心者でも管楽や弦楽のオーケストラに参加してクリスマス音楽会や新入生歓迎会で演奏します。
4年に一度全員が参加して美術工芸展、音楽会 (第4章「2.一貫教育における感性教育」参照) を催します。その準備、運営は最高学部(大学部)の学生を中心に、女子部・男子部の生徒との連携のもと行なわれています。
美術では、創立以来15年間絵画を指導された山本鼎をはじめ、石井鶴三、足立源一郎、日本画の吉岡堅二、洋画家の斎藤長三、深沢紅子、彫刻家の清水多嘉示、木下繁、三坂耿一郎などの諸先生方、第一線で活躍されている画家、彫刻家に指導をお願いしてきた。 現在も日本画の滝沢具幸先生ほか、油絵、彫刻、木工、染色、織物、陶芸等々、各分野の専門家に指導をして頂いている。 音楽では、優れた指導者であった斎藤秀雄先生が長く指導にあたられた。4年に一度の音楽会で大作の演奏や混成コーラスに取り組む折には、音楽会で活躍されている指揮者を招き、指導をして頂いている。
1930年春に卒業した8回生は、自由学園の工芸研究所(現在の自由学園生活工芸研究所)の創設の準備をはじめ、卒業生の山室光子、笹川(今井)和子が美術工芸の勉強のためチェコスロバキアおよびドイツへ留学、他にも国内の研究所や工場等で木工、織物等の研究を重ねるなどの設立準備を経て、1932年11月に開所した。その後、自由学園の美術教育に工芸分野を加えて指導し、生産・販売にまでその働きを社会にひろげてきた。
(*10)ヨハネス・イッテン Johannes Itten 1888-1967 スイス生れの芸術家、理論家、教育家
1917年ウィーンで絵画学校を開設。1919年には「バウハウス」(1919年にドイツに設立された、合理主義・機能主義的な芸術を目指した美術と建築の学校)のマイスターとなる。1926年に故郷ベルンで、独自の造形論や色彩論をもって、後に「イッテン・シューレ Itten Schule」となる学校を開設、日本からの留学生も受け入れ、日本美術にも造詣が深かった。
21.「張り出し勉強」という勉強は、どのようなことをするのですか。
自由学園では教科の授業とは別に、ひとつのことを一定期間集中的に勉強することを「張り出し勉強」と呼んでいます。磯の生物の勉強、鎌倉見学、時計の分解組立、机・椅子作り、聖書・讃美歌を入れる革袋作りなどがあります。
22.全員が参加する登山があるようですが、そのねらいを教えてください。
創立者は山登りを「人生行路の縮図だ」と言っています。「人生というものは、その毎日も全体も、一々周到な用意と賢い工夫をもって、危険と戦いつつ、今立っている所から、一足ずつ歩み出して行く、攀(よ)じ登っていくところの道です」(*11)という認識です。そのため、登山するのは3000m前後の山(コラム10参照 )です。
大人の指導のもと生徒たちが自ら下見をして、宿泊、交通、装備、救護、気象の係が細目の計画を立てます。リーダーが先頭に立って全員で助け合いながら、団体で安全に登頂するのです。安全を期して専門の山岳ガイドを依頼し、全員が登頂できるように足慣らしや体力づくりをします。このような準備のおかげで大きな事故もなく続けてきています。一人ひとりの体調や体力に応じて、コースを選べるようにしています。
登る前に、その山の植物、野鳥、地形、歴史を勉強し、また、点呼など集団行動の訓練もします。自由学園の登山は、人智を超えるものの存在を実感すると同時に、社会、理科、体育などの素晴らしい総合的な学びの場となっています。
(*11)羽仁もと子著作集 第16巻
『みどりごの心』「山にのぼる」
登山道から槍・穂高連峰を望む(女子部高等科)
仙丈ヶ岳の稜線を進む(男子部高等科)
23.そのほか、宿泊を伴う校外学習や海外短期留学の機会はあるのでしょうか。
幼児生活団(幼稚園)では生活団の施設の中での「お泊り勉強」があります。親から離れて泊りがけで友達と24時間の生活を共にして、自立する第一歩を体験します。
女子部及び男子部(中学校、高校)、最高学部(大学部)の「修養会」ではクラスごとに、軽井沢、修善寺、山中湖、妙高、浅間などに行きます。
修養会では、クラスが直面しているいろいろな問題について、リーダーや日番(にちばん)が司会をして、突っ込んで話し合います。その席には教師も参加します。問題の発見、反省、原因の究明、これからの目標の設定などをします。友だちとの交わりの大切な土台作りになります。また、修養会では、本を一冊まとめて読む読書の勉強もします。
このほか、男子部と最高学部は名栗山林に泊りがけで行き働きます。
また、毎年冬にはスキーの合宿実習も行なわれ、女子部、男子部の生徒も楽しみにしています。
さらに、最高学部2年課程の2年次には、伊勢・奈良・京都を訪ね、日本文化を学ぶ卒業・研究旅行も行なわれています。
近年では国際的な交流が増え、高等科以上では希望者によるデンマークやカンボジアへの海外研修旅行や、デンマーク、アメリカ、ポーランド等への短期留学の機会も設けられています。
海外との交流については、「国際化センター」のページをご覧ください。
24.自由学園はいつ誕生したのでしょうか。
1921年(大正10年)に、当時の気鋭のジャーナリストであった羽仁もと子・吉一夫妻によって設立されました。ちなみに、もと子は、報知新聞(当時はスポーツ新聞ではなく、「東京五大新聞」のひとつである有力紙)で日本初の女性記者になりました。
二人は近代化する日本に、自分たちが考える新しい社会を創りたいと願い、まず、1903年に月刊誌『婦人之友』(*12)を創刊し、次に自由学園を作りました。学校を創ろうと考えたきっかけは、長女である説子が通う小学校の教育に疑問を抱いたことでした。
まず、持たせるお弁当が、夏には腐るおそれはないか、こんな量で育ち盛りの子どもに足りるのか、学校で温かい食事を与えることができないか、と考えたのでした。そして、次の疑問は数学でした。小数点を学校で習ってきた説子が、「やさしいのよ。点を打つところさえ間違わなければいいのだから」と言ったことに首をかしげたのです。ただ機械的に点を打てば、小数点の世界が分かると教えている。整数と小数とでは、数の世界が違ってくるという本質を教えていないと感じたのでした。そのようなことが重なって、二人は自前の学校を作ろうと思い立ったのです。
(*12)1903年に創刊されたときは『家庭の友』であったが、1909年に『婦人之友』となり今日に至っている。
よい家庭がよい社会をつくるという信念をもって歩む雑誌で、毎号、羽仁もと子の一文と「自由学園だより」も掲載されている。
25.自由学園はどこで始まったのですか。
荒壁のままの教室で行なわれた開校式(大正10年)
現在の豊島区西池袋です。(当時は東京市外雑司ヶ谷といわれていましたが、自由学園では「目白」と呼んで今に至っています。)学校をつくる決心をしたもと子が同じ教会の教会員であった建築家の遠藤新(あらた)に相談したところ、たまたま帝国ホテル設計のため日本を訪れていた、彼の師であり近代建築巨匠の3人のうちの1人と言われた高名な米国の建築家、フランク・ロイド・ライトを紹介され、すぐにライトのもとを訪れて自由学園の校舎の設計を依頼しました。
ライトはもと子が熱心に語る彼女の教育思想に共鳴して承諾してくれました。(コラムB「ライト様式の自由学園の校舎」 参照)
開校式は校舎(現在の明日館(みょうにちかん))の工事が未完成であったため、荒壁のままの教室で行なわれ、校舎完成まではもと子の家の8畳と6畳の部屋も教室として使われました。小学校を卒業したばかりの少女、わずか26人が最初の生徒でした。
その後も、もと子と吉一は、各界で活躍する人物のところに足を運んでは話を聞き、仕事を依頼したり、学校に来てもらったりすることをためらいませんでした。そこには、実践的なジャーナリスト精神が存分に発揮されています。
26.最初の26名の生徒はどのようにして募集したのですか。
ライト設計による目白の校舎
ほとんどが、自由学園を創立する18年前から発行されていた『婦人之友』の読者の家庭からでした。『婦人之友』は、よい社会を創りたいとの願いのもと、いかにしてよい家庭をつくるかを、創立者が自己の理念にもとづいて、手本となると思われる人の家庭を直接訪ねて話を聞き、そのことを自らが確かめて、理念とあわせて具体的な生活の仕方として提案しました。そして、提案された生活をするための用具や材料が手に入りにくいとの地方の読者の声に、「それであれば、こちらで購入してお届けすればよい」と、今でいう「通信販売」まで試みています。
このような「新しい時代に即した、合理的で経済と時間に無駄のない生活」をしようとの考えに共鳴していた家庭が、新しい学校に子どもを託したのです。
創立の年の『婦人之友』2月号に「『自由学園』の創立―私共同志の新事業にご賛同を願います―」という11頁にわたる記事が載せられ、その中で、なぜ自分たちが新しい学校を作ることにしたかを、詳しく述べています。翌3月号には「自由学園の校舎」として、ライトが設計した新しい学校の校舎が紹介されています。
27.目白から現在の東久留米市(当時、「南沢」と呼んだ)に移ったのはいつですか。
遠藤新の設計により完成した女子部校舎(昭和9年)
創立9年後の1930年(昭和5年)です。
創立4年後の1925年 (大正14年)に、創立者は「週に一日は都会を離れ生徒を自然の中で学ばせたい」という願いをもって、現在の南沢キャンパス一帯の土地、約10万坪を取得しました。取得した用地のうち3万坪は学園の敷地として用い、残りは住宅地として分譲し、現在の学園町(がくえんちょう)が誕生しました。
南沢では「林間教室」という構想のもとに園芸や美術、読書の授業などが行なわれ、また、秋には地域住民も招いて運動会も催されました。
1929年(昭和4年)に創立者の私邸が南沢に構えられると、翌年には南沢に女子生徒のための寮が設置され、生徒は目白のキャンパスと南沢を往来するようになりました。
1930年(昭和5年)には、その3年前に目白のキャンパスで設立された初等部の校舎が南沢に建てられて初等部が移転します。
1932年(昭和7年)に目白のキャンパスから女子部の移転も計画され、1934年(昭和9年)には校舎群がほぼ整い、女子部が移転して南沢が自由学園の中心的なキャンパスとなりました。
これは、目白のキャンパスが生徒の増加で手狭になったこともありますが、男子部の開学という創立者の長年の夢もあってのことでした。(29参照)
28.南沢にキャンパスを移した後、目白のキャンパスはどうなったのですか。
この時代、関東大震災を契機に都心のキャンパスを処分して郊外に移転する学校は少なくありませんでした。自由学園は、幸いにも関東大震災の被害を免れた目白のキャンパスの校舎を、「卒業生の社会に働きかける活動の場」、「社会に開かれた窓」にしたいという創立者の思いから「明日館(みょうにちかん)」と名付けて残し、社会に対して働きかけ、活動する拠点として活用してきました。
「明日館」は1997年に国の重要文化財に指定されました。その後、解体・修復されて、現在は「動態保存」(* 13 ) という形で本来の「社会への窓口」として自由学園本体の諸活動に加え、広く一般に開放されており、多くの方が見学に訪れ、また、利用されています。
(*13)動態保存 文化財などの貴重な建築物は、使用せずに保存している例が多いが、近年は使用しながら保存する「動態保存」を行うケースが出ている。明日館はその成功例とされている。
29.創立者が描いていた「男女共学・国際共学」構想とはどのようなものでしょうか。
1932年(昭和7年)、フランスのニースで開催された「第6回世界新教育会議」に出席した羽仁もと子は、自由学園での実践について報告し、教育による世界平和の実現を訴えました。世界53ヵ国から千人を超える教育者が集まり行われたこの大会と、その後6ヵ月にわたる欧米の教育視察を通じ、もと子は様々な刺激を受け、「男女共学・国際共学」の構想を得て帰国します。
当時の日本では、男女は異なる特性と役割に応じた教育がなされるべきであるという考えの下、中等教育における男女共学は行われておらず、「中学校(旧制)」の教育は男子のみに限られ、女子を対象とする「高等女学校」では良妻賢母の育成を目的としていました。
このような背景の中、もと子は「この封建的な社会の中に、新しい男と女をつくっていこうというのが男女共学」。「様々な人間のいるところで刺激し合っていくことが教育」であり、「男も女も一緒に教育されて刺激されてこそ、本当の人間教育ができる」と述べています。さらに世界中どこの国の人間でも教育を受けられる「国際共学論」の必要を説き、「個人別教育国民別教育は、人間教育の中の一部分に過ぎない」のであり、教育は「国境を越えなくてはならない」 と述べています。
そしてこの2年後の1935年に、女子を対象としていた自由学園の中高の教育に男子部が創設されます。また国際共学構想の一端として、1938年には、戦時下の北京で自由学園北京生活学校が開設されます。
■創立者は男女が共に学ぶという観点から、男子部の創設にどのような期待を持ったのでしょう。
「上級学校への準備教育」「知育に偏する教育」ではなく「真の人間性」を育てる教育を是非男子にも行いたい。そして人間教育の完成に向かいたい。このような願いのもと男子部が創設されます。開校にあたって羽仁もと子は、同じ人間教育の理念のもと、男女が共に学び合うことの意義について次のように述べています。
「男女とも同じ人間教育の精髄のなかで、共にその人間性を伸ばし、かつその基礎の上に立ってのみ両性の特殊性がまたほんとうに発揮されべきはずのものです。両性が人間としての同一基礎の上に立って、はじめてそれぞれ特殊の教育的工夫があるべきもの、また施され得べきものだと思われます。」
「性別を意識する年ごろの子供たちに、男女ともその性に似つかわしい勉強と生活を、別々に与えることが必要であると同時に、いろいろの機会をつくりまた利用して、かれらの別々につくり出しているその勉強の長所に、またその生活の特長に、常に両者をふれしめること、また協力させることが大切だと思います。(中略)男の子には女の子の、女の子には男の子の長所と力量をみとめて、これから自然にうまれ出るまじめな敬意をもたせることが、両性の間をもっとも清潔に調和させる唯一の道です。」
女子部・男子部はそれぞれ特徴のある実践に取り組み大きな成果を上げてきました。また同時に、男子部創設と共に誕生日会や全校で行う行事、委員会活動など、男女が共に学び協力する様々な機会が設けられ、互いの長所を学び合ってきました。
30.創立当時の教科はどのようなものだったのでしょうか。
20で、山本鼎(かなえ)先生をとりあげて美術教育について簡単に述べましたが、理科教育を例にとると、創立者は物理と化学とを融合させた新教育法で知られた和田八重造先生を招いて指導していただいています。和田先生は当時の、植物や動物を教科書で暗記して覚えるやり方には批判的で、生徒を野原に連れて行き、すみれの花を観察して解剖し、花の本質を教えようとしました。実物に触れて学ぶというやり方を大切にしました。
『婦人之友』に掲載されている和田先生の一文を要約すると、「自由学園の科学教育は普通の学校で行なわれているように物理、化学、動物学、植物学など小さな分科にして、学年次に割り当てるなどということはしない。生徒が日常の生活で触れるいろいろな現象に疑問を抱く。それが物理学に属するなら物理学、生物学に属するなら生物学を、その度に教える。それも口授して暗記させるのではなく、秩序正しく科学的に観察したり、論理的に推考したりする力を養うことに重点を置く。しかも、テーマはすべて、生徒たちが日常の生活で疑問に感じたことを先生に提案して、その中から選ぶ」(* 15)としています。
これこそ「生活即教育」の原点と言えます。日常の生活で触れた実物から学問を教わり、さらにその知識を携えて実物に接するという意味では、「生活即教育」だけではなく、「教育即生活」でもあります。
自由学園はいまもすべての教科において、この「生活即教育」、「教育即生活」の原則を貫くべきと考え、一貫教育の中でその実現を目指しています。
(*15)『自由学園の歴史Ⅰ』「生活のための科学-自由学園の科学教育-」
31.戦前の卒業生は、社会に出て、どのような道に進んだのでしょうか。
もと子は、1932年(昭和7年)、ニースで開かれた「世界新教育会議」で講演し、自由学園を「それ自身一つの社会として生き成長し、そうして働きかけつつある学校」と言い表しました。そして、「新社会を作ろうとする学校においては、志のある卒業生が一団となって、社会に働きかけてゆかなくてはならない」というもと子の考えを反映して、女子部6回生の17人が卒業後、「消費組合運動」(コラム11参照)を展開しました。また、次の卒業生は学校に近い農村を対象に家庭経済の改善、子女の教育などを指導する「農村セッツルメント」(コラム12参照 )を開きました。
さらに、女子部の卒業生たちが卒業後に創設した「工芸研究所」(コラム9参照)の活動も、2名の卒業生が欧州に渡り、自由学園で受けた美術教育の土台の上に欧州の工芸を学んで帰国したのち参加して、内容が充実しました。
また、男子部の生徒は、荒野を開拓してつくった那須農場(コラム3参照)で、農場横を流れる蛇尾川(さびがわ)の度重なる氾濫による土地の流出を防ぐため、治水の実学的研究に取り組み、その結果、県や国を動かし農場横に新しい堤防が築かれました。この蛇尾川の研究は、「河川工学」の先駆的研究であり、その後の日本の治水事業にも大きく貢献しました。
こうした女子部・男子部の卒業生たちは、その分野での専門家ではありませんでしたが、真面目に粘り強く取り組む特性と、ひとつのことに偏らない人間力を活かして、社会との関係の中で地道に活動をして、今日の自由学園に多くの有形無形の資産を残してくれています。
1928年に、消費組合運動の仕組みを勉強していた女子部6回生が在学中に「自由学園消費組合」を設立。卒業後は、店舗販売を始め、1930年から羽仁もと子が提唱する「予定生活」をするための予約販売を、共同購入という形を主体的に行う。取扱品目も、食品、日用品、被服などに拡大した。そして、組合員も学園内から、順次、生徒の家庭や「友の会」の会員(『婦人之友』の愛読者の会として発足した)も組合員となり、活動の幅を社会に広げていった。
現在、学内にある食糧部、パン工房、消費組合、㈱自由学園サービスの食事研究グループ・生活工芸研究所(工芸研究所と消費経済研究部を2014年に統合)の母体でもある。
1924年、羽仁夫妻は府下久留米村南沢にもうひとつのキャンパスを構え、「林間教室」 としてより幅広い教育を行なおうとしていたが、同時に、地域社会と自由学園とのかかわりを模索していた。
女子部7回生は1929年(昭和4年)春に卒業後、資金を作り、翌年より南沢学園セッツルメントをひらき、久留米村の若い女性に実践的な衣の勉強を提供したり、農繁期の託児所を開設したりするなど、セッツルメント運動を展開した。南沢の野菜を農家から直接購入して「自由学園消費組合」で販売する試みをするなど、南沢地域を拠点とした活動は多方面に展開した。
また、1935年(昭和10年)には全国友の会が中心になって東北5か所計画で開設、戦後も全国各地で女子部生徒が友の会と一緒に、農閑期衣食住学校や農繁期託児所を行なうなど、一貫して農村の生活改善、農村文化活動に積極的にかかわってきたが、1973年(昭和48年)にその活動を終えた。
32.目白のキャンパスに生活学校、那須には農学塾というものがあったと聞きますが。
戦後、新しい時代の始まりに合わせるように、1948年(昭和23年)、高等学校を卒業した女子を対象として「自由学園 生活学校」(本科と研究科の合計2年課程)を目白の明日館で開学しました。募集要項には「教養のために、衣・食・住の、科学的・経済的・芸術的の研究及び実習」を学ぶ、としています。
生活学校開学1年前の1947年(昭和22年)には、那須農場(コラム3参照)において「農業を生涯の仕事としようと思う15〜18歳の男子」を対象として、2年課程の「農学塾」を開校しています。この農学塾の募集要項には、「自ら考え、自ら創り出していくことのできる農業人を育成することを目標とし、指導者と生徒が親しく触れあう生活教育によって、『よき人間』の基礎となる信仰心の涵養(かんよう)と、たしかな農業技術と知識を身につけることに努める。殊に、酪農の教育に重点をおく。」とあります。双方の指導には、多くの男女の卒業生が携わりました。
戦後の混乱期を脱するため、これからの日本が必要とする「新しい生活」「新しい農業」を実現しようとする活動でした。
また、1938年(昭和13年)5月に、「自由学園北京生活学校」(* 16)を中国北京に開校しました。第一回生として入学した20名の中国人の少女たちと、自由学園の教師と女子部を卒業したばかりの卒業生との、寝食を共にしながらの学びが始まりました。開校期間は7年半でしたが、その間に221名が卒業し、現在でも双方からの交流が続いています。
卒業生たちはそれまでに培った教育資産と与えられた施設を利用して、「社会に働きかける学校」の姿を具体化しようとしたのです。
「農学塾」と「生活学校」は、1973年(昭和48年)に、「北京生活学校」は1945年(昭和20年)に役割を終えて閉校しました。
(*16)北京生活学校の設立趣意書には、自由学園北京生活学校は「共に言葉を学ぶ-、共に生活を学ぶ-、共に技術(主として美術工芸)を学ぶ-」ことによって、両国民が互いに親密なる感情と正しき認識に達することを期待する、と書かれています。
33.創立者を失ったとき、自由学園はどのように対応しようとしたのですか。
羽仁吉一は1955年(昭和30年)に、もと子は2年後の1957年(昭和32年)に逝去しました。それは自由学園にとって言いしれぬ打撃であり、悲しみでした。しかし、後を継いだ創立者の三女の羽仁恵子のもとで、学園は創立者の遺志を守り育てていくべく立ち上がりました。
羽仁恵子は、31年間、学園長として自由学園の先頭に立ち、その後は、創立者の甥である羽仁翹が学園長を14年間務めて、2004年(平成16年)に退任しました。以後は、自由学園の教育を受けた者が学園長の任に当たっています。
これからの自由学園の進む道は、創立者の基本理念に絶えず立ち戻り、確認して、前進を続けることにあります。
2021年(令和3年)に、自由学園は創立100周年を迎えます。→ 創立100周年記念サイト
34.自由学園の「自由」とは、どのような意味なのでしょうか。
自由学園の「自由」は、新約聖書にあるキリストの言葉「真理はあなたたちを自由にする」(*17)に由来します。
創立者は「教育の目的は何ぞときく人があれば、真の自由人をつくりだすことこそ、真の教育の目的であると、私は熱心に主張したい。」「もし人が神の造(つく)りたまいしままに、神の力と人の力で生活しつつ育ちつつあるならば、それはたしかに自由人である。そうしてまた人の力というのは、自分一人(ひとり)のせまい小さい意味の人力でなく、第一に自分自身の力を主とし本として、必要な部分にだんだんとどこまでも他人の力を受け入れるところの、広い意味での人力である。」また、「右せんか左せんか、その決定の瞬間にはたらく意志の自由を、神も他人(ひと)もどうすることもできない。ただ、その人の決心あるのみである。」(*18) と述べています。信仰的には、その自由は神から与えられる自由であり、罪からの自由であるということができます。
第二次大戦中に、「自由学園」という名前の「自由」の文字を変更するようにとの強い要請を政府から繰り返し受けながらも、もと子は確固たる信念を持って所轄官庁に通い、「『自由』の名を外しては、学校を続ける意味がない。『自由』の名前は外すことはできない」と主張し続けて、「自由」という名前を護(まも)ったのも、自由学園が創立者の信仰の上に建てられた学校であることを表すものです。
(*17)新約聖書 『ヨハネによる福音書』第8章32節
(*18)羽仁もと子著作集 第18巻
『教育三十年』「教育の目的とその方法」
35.自由学園の「自由」をもう少し分かりやすく説明してください。
自由学園の自由は、自分のためだけのわがまま勝手、好き勝手な自由ではありません。たとえば、私たちには、靴を揃えて脱ぐか、面倒だから乱雑に脱ぎ散らかすかの選択の自由があります。しかし、靴を乱雑に脱いだ場合には、自分の靴がどこにあるか分からず、履くときには不自由を感じますし、他の人にも迷惑をかけます。靴を揃えて脱ぐことが、自分にとっても社会にとっても高いレベルでの自由が得られることが分かるでしょう。右を選ぶか、左を選ぶかという選択をするときに、自分のわがままや勝手を優先させて選ぶのではなく、共同社会のためによい方を選ぶことの出来る自由、「靴を揃えてぬぐ自由」(*19)が自由学園の目指す自由です。
より良い社会をつくるために、全員がよい選択を行使できる自由を求めてゆくものでありたいと願います。
(*19)羽仁もと子著作集 第20巻
『自由・協力・愛』「靴を揃えてぬぐ自由」
36.自由学園において生徒が真に求めるべきものは何なのですか。
それは他人から与えられるものではありません。ましてや押し付けられたり詰め込まれたりするものでもありません。自由を求めて行動した先に得るものは、人が作った出来合いの物差しではなく、自分自身の物差し(自分たちの価値基準)です。 家を建てることに例えるなら、プレハブ工法のように予め工場で作られた部材を持ってきて組み立てれば時間も手間も省けますが、山から木を切り出し、自分の物差しで建材を作り、自分の設計に基づいて建築するときには、その過程ではいろいろな困難に直面するでしょうが、そのことを通じて大切なことを学ぶのです。自由学園で求めるものは、単に結果ではなく、プロセスを大切にして、そこから学ぶことです。
37.自己流で家を建てるということですか。
いいえ、そのためには、設計の基礎や木材の使い方、用具の用い方などを学ぶ必要があります。既に19でも述べましたが、学問という言葉があります。 これは「学」という言葉と、「問」という二つの違った言葉の合成語です。 学は「まねぶ」、つまり先人や先輩の築いたものを真似する、定石を学ぶということを意味します。問うは、幼子のように素直に「どうして」と問うことです。いろいろな事象や出来事に対して、「どうして」と問うことなく、あらかじめ用意された正解をいち早く見つけ出すテクニックばかり身につけようとすると、それはただ百科事典のような知識を記憶するだけのことで、生きた知識にはなりません。 知識とは、「どうして」を繰り返していくことによって得られる、自分仕様のデータのことなのです。
38.創立当時、「自由」という言葉は、どのような意味を持っていたのでしょうか。
自由学園の「自由」が聖書にある「真理はあなたたちを自由にする」という言葉から始まっていることは34でご説明しましたが、当時の「自由」はそれだけではありませんでした。自由とは、「自由民権運動」にも表れている通り、中央政府による押し付けの制度にはよらない、自主独立の精神に富んだ民間人の行動そのものを表現していたのです。優れたジャーナリストであった創立者が、その自由の意味を知らずして校名に用いたとは考えられません。
1921年(大正10 年)の創立時、まったく同じ自由という言葉を冠した学校が信州の上田に発足しています。「信濃自由大学」がそれで、たちまち「自由大学」の名は全国に広がりました。当時「自由」という概念には、「自由民権運動」という言葉がある通り、中央集権的な杓子定規の枠に囚われず、個人の創意工夫を大事にし、独立した行動を起こすという意味がこめられていたのです。
しかし、そのような意味での「自由」を標榜した学校は、やがて戦時体制の中に埋没して廃校になっていきました。
その中で自由学園の「自由」が生き残ったのは、キリスト教精神を拠りどころにしていたからでしょう。
39.最高学部には学校教育法による大学の資格がないというのは本当ですか。
その通りです。中等科、高等科を卒業すれば、それぞれ中学校、高等学校卒業の資格が得られますが、最高学部を卒業しても学士の資格は与えられません。
このことは、自由学園教育の本質にかかわることです。
過去において、自由学園最高学部が国の定める大学資格を取ろうと思えば、取ることができました。世の中に大小さまざまな、たくさんの大学が存在していることを見れば、長い歴史を持つこの学校の大学が国家の認定を受けることは、それほど困難なことではありませんでした。その中にあって、最高学部はあえて資格を取る道を選んでこなかったのです。
40.大学の資格がない理由を教えてください。
それを説明するには、そもそもの創立の歴史にさかのぼらなければなりません。24で述べましたが、1921年(大正10 年)に自由学園が発足したきっかけは創立者が自分の娘を普通の学校には通わせたくないと考えたからでした。創立者の目には、当時の学校では知識の詰め込み教育が行なわれていると見えたからです。教育に独自の理念を持っていた創立者は、それなら自分で学校を作ってしまおうと考えたのです。
当時の政府は、「先進国に追いつけ、追い越せ」のかけ声のもとで、全国一律の学校制度を作り、画一的な知識を子どもたちに出来るだけ多く学ばせようとしていました。それはそれなりに日本の近代化や経済発展には役立ちましたが、創立者は、それだけが教育ではないのではないかと首をかしげたわけです。つまり当時の文部省令によらない学校を作ることにしたのです。それが大学に相当する最高学部において、いまでも貫かれているのです。
41.資格の問題について、創立者はどのようなことを言っていたのですか。
羽仁吉一は、1953年(昭和28年)の終業式で、次のように話しています。「(資格を取らないということは)何ひとつ特権もないようだが本当の心にもないことをさせないために資格をなしにした」。(* 20 )その2年前の自由学園の創立30周年記念行事で、現役の文部大臣であった天野貞祐(あまのていゆう)氏が来賓として次の内容のスピーチをしました。 「資格万能のこの世の中で、資格なしの教育を30年間もやってきた、これ以上独創的なことがあるだろうか。世の中は、本当の学問をするためではなく資格を取るために大学に行くというのに」
最高学部(大学部)は、学士号という資格こそ得られませんが、「講義要綱」(*21)でご覧いただけるように、一般のリベラル・アーツ・カレッジと同等あるいはそれ以上のカリキュラムを組み、専任、兼任とも優れた教師陣によるきめ細い研究指導ならびに生活指導を行なっています。
(*20)『自由人をつくる』「自由人をつくる」
(*21)最高学部で毎年度発刊しているカリキュラム総覧。カリキュラムの内容については、第4章「自由学園の一貫教育」の「4 最高学部のカリキュラム」を参照。
42.自由学園の最高学部を卒業した学生は、どのような進路を取るのでしょうか。
「最高学部卒業生の進路」(コラムC)をご覧いただくと分かる通り、最高学部卒業生は企業・NGO・文化芸術分野と実に幅広く受け入れられて多方面で活躍をしています。大部分の民間企業は、採用に際しても学士号を持った者、つまり4年制大学卒業者と同等の能力があるものとして受け入れています。ことビジネスの社会に限って言うのなら、ハードルは決して高くありません。また、自分の持てる能力を活かして自ら起業している卒業生も少なくありません。
医者や弁護士など国家資格が必要な職業に就こうという人や、さらに専門的な学問をしたいという人は、もう一度大学や大学院にいく場合もありますが、そのほかは他の大学と変わりはありません。具体的には、弁護士を志した学生が最高学部でしか経験できない幅広い勉強をするため進学して、卒業後は法科大学院に進み、優秀な成績で卒業(学長賞を取得)、司法試験に合格して現在、弁護士となり活躍しているというケースもあります。
といって、最高学部の目的は必ずしも社会的に地位の高い者や、有名な大企業で出世をする者を送り出すことではありません。男女を問わず社会の一隅で「地の塩」(*22)や「一粒の麦」(*23)として地道な活動にいそしんでいる人も多くいます。
国際飢餓対策機構というNGOに属し、中米やアフリカで農業指導に携わってきた人、青年海外協力隊に入り、発展途上国で人々の生活向上のために従事している人、また、介護福祉や地域活動など地道な働きをしている人なども、少なくありません。
参考サイト:「自由学園 100人の卒業生+」
(*22)「地の塩」
新約聖書 マタイによる福音書5章13節~
マルコによる福音書9章49,50節
ルカによる福音書14章34,35節
(*23)「一粒の麦」
新約聖書 ヨハネによる福音書12章24節~
43.「学歴重視」が根強く残っている中で、卒業生は不利な立場に置かれませんか。
卒業式
生徒・学生全員に見送られて
卒業生で会社の中枢を担い活躍している人たちはたくさんいます。企業の人事担当者に直接尋ねてみたら、明らかなことですが、知識ばかりの頭でっかちの学生は要らないと異口同音に言っています。彼らが必要としているのは、問題を自分の頭で発見し、解決していこうとする姿勢のある若者です。全員で協力でき、またリーダーシップをとる能力のある者なら、なおさらいいと言っています。 自由学園卒業生の特質は、与えられたことに真面目に取り組み、たとえ困難なことに直面しても、粘り強く努力を積み重ね、光明を見出そうとするところにあります。これは就職後の離職率の低さにも表れています。一般には大学卒業後3年以内の離職率は30%を超えるといわれていますが、自由学園の卒業生は2017年~2019年の3年間で7.3%と大きな差があります。4年課程4年生の就職内定率は、2015年~2019年の5年平均で94.5%です。
44.自由学園の卒業生には、どのような共通性があるのでしょうか。
多くの卒業生を見ると、男女を問わず、大きく三つの共通性があるようです。
まず、「基礎体力が強い」ことです。学生時代に労作にいそしんだだけではなく、デンマーク体操 (「コラムE 感性教育とその発表」参照) で五体を鍛え、いろいろなスポーツをしたことが、役立っているのでしょう。それに、一貫教育の中で日々、規則正しい生活をして、バランスのとれた食事をしてきたことが、強靭な基礎体力を形成しているに違いありません。
二つ目は、与えられた仕事や環境を肯定的に受けとめ、「率直に、前向きに、本気で取り組む姿勢」があることです。これも、学生時代の学校や寮での生活や、「自治区域」(コラム4参照)での掃除や建物の維持管理に責任を持ってきたためでしょう。
三つ目は、「友だち同士の仲が良いこと」です。「あの人が上になると自分は落ちる」といった成績競争を経ておらず、むしろ協力して学習したり、与えられた課題を助け合い、苦楽を共にして乗り越えてきた体験を持っているためと思われます。
これらの根底には、「自分の属する社会をよくしよう」「そのために、自分の持つ力を役立てよう」という意識と意志と、他からどう思われるかよりも、今自分が大切だと信じることに力を出せる姿勢があると思います。そして、このことは、どのような場にあっても「求められる人」となれる可能性を持っていると考えます。
参考サイト:「自由学園 100人の卒業生+」
45.自由学園に入学するときに求められる資質はどのようなものですか。
創立者は「自由学園は、天真爛漫にして本気な少女少年」「自ら進んで自らを教育せんとする気概ある少女少年を歓迎する」と述べています。(コラム1参照) これは、別の言葉で言えば、一人ひとりに与えられている「よくしたい」「よくなりたい」という思いを素直に実行する気持ちや意欲が大切だということです。 しかも自分さえよければいいというのではなく、自分の周りを少しでもよくするために友人と協力して励むことも大切にしています。 そこで入学試験では、学科の試験だけではなく、団体生活を一緒に励むことができるかどうかを見るための集団考査も行ないます。何よりも、自分から「自由学園の勉強をしたい」という熱心な思いを持つことが求められます。
46.保護者には入学試験の時に何が求められますか。
6でも述べましたが、自由学園の教育が大切にする「生活即教育」は学校だけで果たせるものではなく、家庭の理解と協力が不可欠です。
そのため、入学試験では保護者面接があります。お子様のそれまでの家庭での様子を話していただき、保護者の自由学園の教育に対する考え方や思いをうかがい、また、学園からは家庭にお願いすることをお話しして、相互に理解することを大切にします。
47.偏差値とは無関係の入学試験をされていますが、どうしてですか。
私たちは人間の能力を偏差値という単純なものさしでは測ることはできないと考えています。
1でも述べましたが、人間にはいろいろな可能性があり、学科試験の成績のみで判断をすることは、人を偏って評価することになると考えています。偏差値で表される受験のための勉強をしたかどうかではなく、その年齢に応じた基礎的な力を持っているかどうかを見ます。
48.帰国子女の受け入れや、海外からの留学についてどのようになっていますか。
帰国子女の受験については、英語で試験をすることや、適性試験だけを課すというような配慮をしています。帰国子女や海外からの留学生には、入学後必要があれば、個別に日本語の授業や補習を行ないます。「東天寮(とうてんりょう)」、「清風寮(せいふうりょう)」(コラム16参照)での共同生活は帰国生、留学生だけでなく、受け入れる生徒自身の成長につながっています。中等科1年に入学して10年間在学し、最高学部(大学部)を卒業後、社会人として活躍しているネパールからの留学生もいます。
2016年度からは「国際交流センター」を開設し、ネパールをはじめデンマークなど海外との交流を推進しています。
1.一貫教育の意味
49.自由学園の特色は一貫教育にあるとのことですが、体系を教えてください。
第2章「自由学園の生い立ち」でも述べたように、自由学園は女子の学校として設立され、次いで初等部(小学校)、男子部、幼児生活団(幼稚園)の順で戦前に設立されました。そして、戦後、1949年(昭和24年)に最高学部(大学部)が創設されますが、創立者はその時、最高学部の創設を「自由学園の第二の創立」として、「現代の大学は、職業教育と教育とを混同している」と看破し、自由学園の大学は「人間教育の仕上げの場」と位置づけました。そして、最高学部が一般からは学生を募集しない理由について、「なぜならそれは、子供のときからの生活と教育の上に立つ大学だからであります」(*24)と述べています。こうして、今から70年以上前に幼児期から成人までの成長過程にあわせた一貫教育をする姿になりました。
(*24)羽仁もと子著作集 第18巻『教育三十年』「自由学園の大学」
50.一貫教育のねらいはどこにあるのでしょうか。
生活講習「顔洗い」(幼児生活団6才組)
一般にいわれる一貫教育と同じメリットはもちろんあります。生徒一人ひとりの個性をじっくり把握した教育ができますし、どの段階まで知識を蓄積したかが分かり、その上に立った教え方ができます。近年、小中・中高一貫教育が注目されていますが、多くは受験勉強を効率的に行なうことが目的のようにうかがえます。
しかし、自由学園の一貫教育は受験競争に勝ち抜く知識を獲得することを目的としたものではなく、社会に役立つ人間を一貫した理念に基づいて成長過程にあわせて教育することを目指しています。創立者は「これは真理だから知らなくてはならない これは道理だからみんなが身につけなくてはならないということをやっている。」(*25) と言っています。
自由学園の一貫教育では、生徒自身が成長段階にふさわしい責任を担い、自らを治めることを学んでいくことが、また、寮生活などを通じ、年長の生徒が年少の生徒を教え、下級生は上級生から、上級生もまた下級生から学ぶことがそれぞれ重んじられています。
生徒が責任を持って学ぶ、この教育方法が自由学園の一大特色であり、多くの卒業生が社会に出てから役に立ったと言っています。
(*25)『自由人をつくる』「一貫教育の長所と短所」
51.一貫教育の段階について教えてください。
幼児生活団(幼稚園)は長い間、週1日生活団に通い、その他の日は家庭で幼児生活団の子どもとしての生活を励む形で運営をしてきましたが、2007年(平成19年)度からは週5日制の幼稚園となりました。また、幼児生活団の「通信グループ」は、その教育を全国各地方や遠く海外にある家庭でも行なっていただけるよう、その内容を定期的に発信しています。その他、友の会(*26)が全国12か所で幼児生活団を運営しています。
初等部(小学校)は、各学年はひとクラスで、各クラス40名の規模です。
女子部と男子部はそれぞれ中等科と高等科で構成されています。初等部から進学する生徒の他、中等科と高等科の各段階で全国各地から生徒を迎えています。このため、男子部・女子部には寮があり、寮での生活が自由学園の教育の一つの特色となっています。(寮生活について79~86参照)
最高学部(大学部)は1949年(昭和24年)に4年制の男子学部、翌年に2年制の女子学部が開学されました。男女別学でしたが、1999年(平成11年)度より、徐々にカリキュラム等も新たにして、現在の4年制(男女共学)と2年制(女子のみ)の体制に移行しました。
2016年(平成28年)には、これまでの一貫教育に新たに加わる45歳以上を対象とした「リビングアカデミー」を開校しました。
また、2014年には婦人之友社・全国友の会との協力の下、「U6(under6)」の活動を開始し、2017年まで集中的に6歳以下の子どもたちの生活や教育、子育てについて考え発信する活動を進めました。現在も各団体でそれぞれの形で活動を推進しており、自由学園では幼児生活団幼稚園に加えて、入園前の3歳以下のお子さんと保護者の方のための子育ち支援「こっこ広場」「ことりぐみ」の活動をしています。
このように従来の一貫教育に加えて、現在では0歳から高年の方々まで、すべての年代が自由学園のキャンパスに集って学び合い、活動するようになりました。様々な年代との交流の機会も増えています。
(「コラムD 一貫教育の考え方と体系」参照)
(*26)友の会
『全国友の会』は『婦人之友』の愛読者で、羽仁もと子の思想に賛同した女性たちによって1930年(昭和5年)に生まれた団体。健全な家庭をはぐくみ、地域に働きかけ、よりよい社会を創りたいと、全国また海外にも拠点を持ち活動している。
52.自由学園の一貫教育の特色を各部別にもう少し詳しく教えてください。
各部で掲げるモットー(標語)をご紹介して、各部の特色を簡単にご説明します。
幼児生活団(幼稚園)は、健康面でも精神面でも独立心を育むように、家庭と協力して、楽しく生活するところです。自分のことは自分でできるように、また音楽や美術、動植物にも触れたりしながら、生活の基礎を身につけます。(「コラムD」内「自由学園の幼児教育」参照)
初等部(小学校)では「よくみる・よくきく・よくする」を標語として毎日生活しています。教室での勉強や、学校でのさまざまな仕事をする際に、対象を「よくみる」こと、人の話(時には自然からの声)を「よくきく」こと、自分から「よくする」ことが大切だと考えています。また子どもたちは自分から進んで、さっさと行動を取れるように生活することを心がけています。これを「パッとの生活」と呼び、「パッと起き・パッと寝・パッと勉強」を基本的な生活態度としています。
女子部では「思想しつつ・生活しつつ・祈りつつ」が標語です。英語では「Thinking, Living and Praying」となり、頭文字の「T・L・P」をマークにしています。
この「思想しつつ・生活しつつ・祈りつつ」は、自由学園全体のモットーでもあります。また、「T・L・P」は全国友の会 (*26参照) の旗章にも使われています。
男子部では「思想しつつ・生活しつつ・祈りつつ」を、「思想・技術・信仰」と言い換えて標語にしています。英語では「Thought, Technique and Faith」となり、男子部のマークはこの頭文字「T・T・F」を組み合わせています。マークは二つのTを交差させ、その中心をFでしっかりと留める、すなわち思想と技術の要は信仰である、という考えが表されています。
最高学部(大学部)では教育を端的に表す標語を設けてはいませんが、自由学園一貫教育の仕上げの場として「真の自由人」を目指しています。
こうして、幼児期から成人にいたるまで、目標を持ち、その成長過程にあわせて人間形成をしていくことが、自由学園の一貫教育のめざすものです。
リビングアカデミーでは「学び」「交わり」そして「楽しみ」、それらを生かした活動を通して「社会に役立つ」ことを目指しています。(「コラムD 一貫教育の考え方と体系」参照)
53.一貫教育は最高学部で完成すると考えてよいのですか。
最高学部(大学部)は自由学園としての最終課程ですが、これをもって自由学園が目指す人間教育が終るとは考えません。自由学園は「社会に働きかけて、社会をよくする」ことに使命があると考えています。役立つ人を育てることが自由学園教育の目標であるということは、卒業生が実社会に出て、その社会でどのような働きが出来るかによって、自由学園教育の真価が問われることになります。
自由学園が理想像と考える、叡智、能力及び品性を備えた人、志を実現する意思と身体(からだ)を鍛(きた)えた人、リーダーとして先頭に立てる人、フォロワーとして協力できる人、神と人とに仕える精神(こころ)を持った人となるためには、社会に出てからも努めなくてはなりません。卒業は「教育のおわり」ではなく、「新しい学びのスタート」と考えます。自由学園の一貫教育は、卒業後も続くものと考えています。
その意味で、最高学部は「自由学園一貫教育の仕上げ」をする期間であり、ここで社会とのかかわりを学び、体験し、それを実社会に出てからの「学び」の基礎とすることが望まれます。
このことは多くの卒業生が自らの体験として語っています。
リビングアカデミーでは「真実なる教育は、人の生涯を通して、老若それぞれの時代において、四季折々の輝きを具象するものでなくてはらない」という羽仁もと子の教育理念の下に、いったん社会に出た人たちが新たに学び、交わる機会を提供し、まさに人生を一貫した教育カリキュラムを実現しています。(コラム13参照)
自由学園出版局発行の『自由学園の手紙 -卒業生が歩んだ道-』(1)(2)がある。
この中で、多くの分野で活動している卒業生が、卒業後、社会にあってどのようなことをしてきたか、そして、その働きのもとに自由学園で学んだことがあり、それがいかに多く活かされているかを、異口同音に語っている。
この表題の「自由学園の手紙」は、創立者が夏休みを前にした生徒たちに、聖書の「コリントの使徒への手紙2」の第3章の初めの部分を引用して、「一人ひとりが『自由学園の手紙』としての使命を果たして帰ってきなさい」と話されたことからとられたもの。
2.一貫教育における感性教育
54.自由学園には恒例の行事が多くあると聞きますが。
今までにも触れましたが、自由学園には長年続けてきている伝統的な行事があります。毎年秋に開催される「体操会」、4年に1回開催される「美術工芸展」と「音楽会」などがそれらに当たります。(「コラムE 感性教育とその発表」参照) いずれも戦前から続けられているもので、時代とともに内容は変化しているところはありますが、全員が参加することと、会の運営のほとんどが生徒・学生の手に任されることは変わらずに行なわれており、自由学園の行事の大きな特色です。
55.自由学園が美術・音楽・体操に力を入れてきているのはなぜですか。
コーラスの時間(女子部)
美術や音楽を学ぶことは、感性を育て人間性を豊かにし、また、体操は健康で強靭な身体を育て精神力・忍耐力を養うことに役立つと考え、この三つが調和してはじめて、その人の生活の質を高めることができると考えているからです。 創立者は、「その肉体の健康は同時にその精神の健康を思わせた。それは叡智と熱情の、また個人主義と全体主義の調和を物語る、無言の交響楽でもあった」と表現し、「体操会は、その技術の展覧会ではなくて、その生活の報告会であった」とも位置づけて、「この美しい南沢に健康美と人情美を満たしたい」(*27) とも願っていました。これが今でも体操会の究極の狙いです。 美術、音楽、体操の分野では、ともすると得手不得手や好き嫌いがあるといわれますが、自由学園では上手下手は別として全員が学び体験することを大切にしています。 卒業生の中には、これらの分野で社会的にも名を成す業績をあげている人が少なくありませんが、大切なことは、自由学園の教育にとって美術、音楽、体操は人間形成のために欠かせない学びであることです。そして、短期間で成果を問うのではなく、一貫教育の中でそれらがその人の生活の中に同化することを願うのです。 (*27)『雑司ヶ谷短信 上巻』「健康美・人情美」(原文の旧字は新字に改めた。)
56.生徒・学生が行事の運営までもするとのことですが。
美術工芸展、音楽会、体操会は、生徒・学生が自分たちが学び身につけたことを発表するとともに、少しでも多くの方に自由学園の人間教育に関心を持ち理解していただきたいとの願いで行なっています。そして、 同時にこれらの行事の企画・運営が生徒・学生に任されることが、自由学園教育の特色です。
一年前から準備をして、当日は数千人のお客様をお迎えし、演者となり、そして運営をも担当することは大変なことですが、そのことが計画力・組織力・実行力を身につける貴重な機会になっています。在学中に何度か行事があり、その都度、年代に応じていろいろな責任や役割を果たすことになりますが、この体験は社会に出てから役に立っています。
行事に来てくださった多くの方々が、生徒・学生の演奏・作品・演技に感銘を受けた、と言って下さったり、また、会の運営面で裏方を務めている生徒・学生の姿を見て「自由学園の教育の本質を見ることが出来た」と言っていただけることも少なくありません。
3.最終課程としての最高学部
57.大学に相当する最高学部では、どのような勉強をするのでしょうか。
『学園新聞』の編集(最高学部)
最高学部は、自由学園での一貫教育を仕上げる場です。一貫教育の過程で生徒たちの意識はどのように変化し、成長していくのかをご説明します。
中等科、高等科は「社会のために役立つ人間」となるための準備段階であり、最高学部は仕上げの段階となります。自分の力を出すべく実践するわけです。また、そのための教養を身につける場でもあるのです。
そのため、机の上の勉強でも、初等部(小学校)、中等科、高等科、最高学部と、どの段階でどのようなことを学ぶかを定め、だんだん高度になって、最高学部で学問の領域に達するように計画されています。
最高学部に進むと、学部のことはもちろん、学園全体のことを考えるようになります。1,2年の前期には「生活経営研究実習」というカリキュラムも設けられ、学園の施設を利用して日常運営にかかわることからも学びます。それが後期には独自の研究に発展することもあり、近年では卒業研究で「自由学園のキャンパス・マネジメント」というテーマを取り上げた学生たちもいました。また、年10回刊行される機関紙「学園新聞」の編集責任を負うのも最高学部の学生です。また、インターンシップやボランティア活動、留学などを希望する学生は「ギャップイヤー制度」または「学外研修制度」を活用することで、直接学外の場で学ぶ機会も広がります。
3、4年になると、学園全体のことだけではなく、社会を良くするために自分たちに何ができるかを考えるようになります。意識の領域が、自分自身のことから段々と拡がり、学園全体に、さらに地域社会から一般社会、そして世界へと広がっていくのです。
2016年4月より最高学部は、以上の「社会をよくするため」の学問を通じて社会へ貢献する人を育てるという建学の精神を貫きつつ、「生命(いのち)の良き経営者」を育てる新たなカリキュラムを開始しました。具体的には、従来のカリキュラムをさらに発展させ、前期(1~2年)では上述の「生活経営研究実習」、後期(3~4年)では「領域横断研究」に取り組んでいます。4年間のカリキュラムを通じて、文理の学問領域を超えた、人間と社会の全体像を捉える学びを展開し、最高学部から社会そして世界の問題を考え行動できる人を育てます。
58.最高学部の勉強と男子部や女子部の勉強はどうつながるのでしょうか。
最高学部(大学部)の4年課程では「卒業研究」、2年課程では「卒業勉強」と呼んでいる研究をします。最高学部での学びのまとめとして行なわれるこの研究に、学生たちは自分たちの創意工夫を生かし、活き活きと取り組んでいます。
いろいろなテーマが取り上げられますが、特徴は「テーマの多くが自分たちの身近なところにあるもの」であることでしょう。
女子部・男子部で生活し、学び、体験して関心をもってきたことを、最高学部で学問として取り上げて研究をするケースが多く、その中で学園教育に対して問題を提起したり、自分たちが学んできたことと社会との関係性の中で研究をしたりしています。これは一貫教育の中で学び生活してきたからこそできることです。
2016年4月より最高学部は、従来のカリキュラムを更に発展させ、前期(1~2年)では「生活経営研究実習」、後期(3~4年)では「領域横断研究」に取り組みます。
「生活経営研究実習」は、それまでに女子部と男子部で生活し学んできた経験と知識を土台に、南沢キャンパスの運営の一翼を担う中で、自由学園の問題を社会そして世界の問題として取り組むことのできるユニークかつ最高学部でしかできない学びです。
「領域横断研究」は、この「生活経営研究実習」で身につけた知識と技能、そして課題意識を素地にして、社会そして世界の問題をより発展的に学問的に追究します。その際、お互いに異なる関心と専門分野を持つ学生同士がグループを結成しますので、各グループ内では或る問題に対しておのずと多角的かつ学際的にアプローチする試みが生まれます。一般に大学レベルでこのような研究方法が採用されることはありえませんが、最高学部はもともと、それぞれが女子部と男子部で別々に生活し学んできた経験を持っていながら、お互いに協力し、お互いを尊重し合う学生たちが集う大学であり、異なる価値観や考え方を持つ者同士が切磋琢磨して研究に取り組むことのできる土壌があります。個人での研究はどうしても専門分野に偏りがちですが、最高学部の「領域横断研究」では他者と協力する中で真理を探究します。このような経験は、最高学部卒業後に社会の中で生きていく中でも大いに発揮され役立つ力となります。
59.具体例を教えてください。
最近の例を挙げると、「数理モデルとインターフェイス」のグループに所属する学生たちが、広いキャンパス内に飛んでくる野鳥の行動を、統計学を用いて分析した研究がありました。男子部の中等科の生徒たちが、40数年にわたって野鳥を追って蓄積したバード・センサスのデータをもとに、分析・研究したものです。当然、彼も過去その観察者の一人でありました。また、関連団体の全国友の会による主婦の生活行動時間調査をもとに、主婦の生活行動パターンを、これもまた統計学を用いて説明した学生もいました。双方ともオランダとアイルランドで開かれた国際学会で学生二人が英語で発表し、大きな反響を得ました。(コラム14参照) また、自分たちの女子部・男子部時代からの学園での生活体験から、学園の「生活即教育」を取り上げて、その価値を社会との関係で考察して、学園教育への新しい提言をした研究もあります。最近の例では、自由学園の現存するキャンパスを活かして学ぶことへの再提案をした、「自由学園におけるキャンパスと生活即教育の有機的関係性のデザイン」や、自由学園教育で大切にしている「労作」(=「自治区域」(コラム4参照)を管理すること)を、社会に出てからの自分たちを想定して「"働くこと"における自由学園教育の価値と重要性」について考察したものがあります。自らの体験を通しての研究は、学園の研究のひとつの特色です。 女子2年課程での卒業勉強のほとんどは、自分たちが女子部で学んだこと、最高学部で体験していることを学問的に考察しているものです。最近では長い伝統のある古都京都・奈良をめぐる卒業旅行の意義を問い直し、今後のあり方を提言した「卒業研究旅行」、女子部での体験をもとに「生活即教育」を問い直し、これからのあり方を提案した「自由学園の生活教育の再考」などがあります。
要因変化を組み込んだ野鳥羽数のモデルの構築と、主婦の生活行動分析研究(生活時間のモデル化に関する研究ー全国友の会生活時間調べの解析をもとにー)は、現役の大学生がこのような身近なデータをもとに高度な研究発表をして、その結果を国際学会で発表することは極めてまれなことであり、高い評価を得た。
また、そのうちの一人の研究に対してはその後「日本学生支援機構」から優秀な研究をした学生を表彰する「奨励賞」が与えられた。
60.女子部・男子部での学びが直接つながって継続・発展する例はありますか。
裁縫の時間(女子部)
具体的な例でご説明します。たとえば、女子部では裁縫が「生活即教育」の大事な柱になっています。中等科1、2年生では運針を学び、エプロンやブラウスを、3年生はワンピースを、高等科ではコートを自分で仕立てられる力をつけます。そして、最高学部(大学部)では、学んできた知識と身につけた技量を活かして、体の不自由なお年寄りが使いやすい衣服を考案し、地域の老人ホームを訪れ、介護サービスを体験するとともに、寝たきりの方や足の不自由な方にパジャマなどを製作して差し上げることで、とても喜んでいただいています。 2011年3月に発生した東日本大震災の復興支援活動では、全国友の会の会員とともに、学んできた技術を用いて、工夫のこらされた多くの実用的な小物類を提供しています。 中等科から高等科での自分のための衣服を作る勉強が、最高学部になって、他人のために作ることを辻手社会との関わりを学び、さらには被服学という専門的な学問に至るのです。裁縫は女子が中心でしたが、男子の中にもこうした被服学に関心を持つ者も出てきています。最高学部での被服学は、単に素材の選び方、布の使い方を研究するだけではなく、生活に視点を置きながら今の社会が何を求めているのかを探り、それにふさわしい機能的なデザインをも考える学問なのです。
61.男子の例はありますか。
11でご紹介したように、自由学園は名栗(なぐり)に植林地を持っており、男子部の高等科になると、名栗の山の手入れをしに行きます。名栗では1950年(昭和25年)から3万本のスギ・ヒノキを植えてきました。自由学園の創立者の一人である羽仁吉一は名栗の植林を始めるにあたって、「木が育つには数十年がかかる。将来この木で校舎を建てよう」と語りました。2004年(平成16年)には、その植林地の木材を使って、最高学部(大学部)の食堂の床の一部を学生が専門家の指導を受けて張りました。
高等科での国内活動が、最高学部になると海外での植林に広がり、その目的が「発展途上国の人たちのため」という形になります。最高学部では、1990年(平成2年)度より毎年の夏休み3週間ほどネパールに行き、植林活動をしています。枯渇しかかっていたネパールの森林資源を現地の人とともに復活させるためです。植林をするだけではなく、現地の子どもたちと一緒に勉強やスポーツ交流会をしたり、村人の生活調査をしたりしています。
この勉強は、自由学園の第三代学園長の羽仁翹(ぎょう)が「外に出て、自由学園の力を社会のために役立てよう」と提案したことから始まったもので、すでに25年が経過し、現地の樹木もすくすく育ってきています。このネパール植林には、女子学生も関心を示し、最近では女子学生がリーダーになる例も出てきています。
4.最高学部のカリキュラム
62.最高学部のカリキュラムを、もう少し詳しく教えて下さい。
①「研究実習」、②「講義カリキュラム」、③「生活カリキュラム」、④「ライフデザイン」の四つで構成されています。
①研究実習
前期(1~2年生)には「生活経営研究実習」と呼ばれる活動があります。
これは、農芸、食、庭園・自然環境、施設管理、図書・記録資料の5グループに分かれて、それまでに女子部と男子部で生活し学んできた経験と知識を土台に、南沢キャンパスの運営の一翼を担う中で、自由学園の問題を社会そして世界の問題として取り組む実践的な勉強です。
そして、後期(3~4年生)には「領域横断研究」があります。
これは、前期の生活経営研究実習で身につけた知識と技能、そして課題意識を素地にして、社会そして世界の問題をテーマごとに分かれて、より発展的に学問的に追究する、最高学部でしかできない研究です。グループをつくる際には、お互いに異なる関心と専門分野を持つ学生同士が集い、共同で研究に当たることで、問題発見と問題解決の能力を身につけます。これは社会に出て最も必要とされる能力と考えます。一つのグループには、経営学を選択した者もいれば、世界宗教思想史や人体生理学を選択した者もいるといった具合で、それぞれの専門知識をグループ研究に反映させます。いわば学際的な共同研究です。これは女子部、男子部での生活体験を基にした少人数教育だからこそできる方法であり、また、どこの大学にも真似できないユニークな研究手法です。さらに、婦人之友社、全国友の会、東久留米市、地域自治会などの協力を得て学園外にもフィールド・体験の場を持ち、社会にいかにして自分たちが貢献できるかを学びます。
②講義カリキュラム
基礎教養は、自由学園最高学部で学んだ全ての者が共通に持つべきスタンダード(基準)を設け、人間教育に必要な教養を学ぶものです。具体的な科目としては、哲学・思想、経営と経済・社会、生物科学基礎、地球システム科学などの他、さまざまな学問領域の特色を学ぶ「領域総観」、年数回にわたり著名な講師を招聘する「地球市民教育フォーラム」があります。
基礎技能には、日本語表現、英語応用、情報理解基礎、社会調査基礎、IT社会基礎、代数学などがあり、いずれも社会に出たときに役に立つ力が身につく講義ばかりです。
感性教育には、自由学園が伝統的に大切にしてきた美術、音楽、体操の他、それらが学生一人ひとりの中に総合され実践されていることを学問的に理解するための講義として、「生活芸術基礎」があります。
後期(3~4年生)には上記とは別に専門科目があります。3、4年合同で受け、専門的な学問を総合的に学ぶもので、学生がそれぞれ選択します。「社会」のカテゴリーでは教育文化論、ジェンダー論、経営学、マーケティングなど、「自然」のカテゴリーでは幾何学、科学実験、現代科学、人体生理学など、「文化」のカテゴリーでは、世界宗教思想史、世界近現代史、日本文学原典講読、外国文学などがあります。こうした専門科目は学生一人ひとりが教師や講師と相対して学びます。
③生活カリキュラム
生活カリキュラムは、「生活」を通して人間教育を行なうもので、自由学園における最も重要な学びの場です。礼拝、食事時間、自治区域、各種行事、スポーツ・芸術活動、ネパール・ワークキャンプ、『学園新聞』の編集、女子部、男子部に対するTA(ティーチング・アシスタント)、初等部(小学校)での水泳指導、ボランティア活動など学生による生活運営があります。これらは単位にはなりませんが、学生たちは自分たちが計画して自分たちで自主的にこの生活教育を運営しています。
④ライフデザイン
ライフデザインは、人生をどう生きるかを1年から4年まで連続して学ぶカリキュラムです。卒業後の進路選択の指導も重要な目的ですが、1年生の「職業と生き方」では、自由学園を卒業した社会人から直接話を聴き、職業を持つとはどういうことかを考えます。また、「生涯発達論」では、幼児生活団(幼稚園)での実習を含め、幼年期と高齢期の人生について考えます。2年生以降は、一人ひとりが人生の生き方についてより具体的に考えるため、引き続き「職業と生き方」がある他、ライフスタイル概論、スポーツと生きがい、結婚と家族などの講義があります。
4年課程では3、4年生、2年課程では1、2年生を対象に、卒業後の進路に向けた「キャリアガイダンス」があり、最高学部が設置する「キャリア支援室」と卒業生や父母が協力して学生への就職サポート体制を充実させています。具体的には、「就職(公務員含む)」、「進学(大学院・留学・専門学校)」、「自営業・起業・団体」の3つの進路別グループをつくり、それぞれの担当教職員がグループ内の学生一人一人を丁寧に指導します。
進学グループに属する学生のうち、最高学部卒業後に社会的な専門資格の取得を希望する人に対しては、最高学部在学中でも取得できる資格情報や、卒業後に進学できる学校の情報などを提供しています。
また、2018年度より「経営実践研究」が開始します。主には、自営業・起業・団体グループに属する学生向けに、中小企業の次世代経営者、起業する人、社会貢献団体(NPOなど)の経営者などを将来目指す人のために新設される講座です。
このライフデザインで学ぶことは、上記①~③の学びのすべての土台に位置づけられている他、学生一人ひとりが生活に根ざした自主独立の「思想・精神」を育むことを目指しています。2017年度から新たに開始する「自由学原論」は、ライフデザインのカリキュラムの一環として、最高学部が伝統的に大切にしてきたキリスト教価値観、自由学園の思想、国文学を関連させたさまざまなテーマに沿って講義を行ないます。この講義を通じて、最高学部の学生は、与えられた人生の意味を深く考え、将来、自分の進路を選択する時も、卒業後にさまざまな問題に直面した時も、常に自分なりの判断基準を持って取り組むことのできる人へ成長していきます。
5.自由学園のリベラル・アーツ
63.最高学部で志向するリベラル・アーツは、他とは違うのでしょうか。
リベラル・アーツを「一般教養」と訳す人が多いようですが、これは正確ではありません。もともと古代ローマでは、アーツ(技)を「自由人のアーツ」(Artes Liberales)と「実利に役立つ機械的なアーツ」(Artes Mechanicae)とに分けていました。リベラル・アーツとは専門に偏らず、全方面に関心を抱き、心身ともに健康な、総合的な人間を育てるための教育という意味です。古代中国では、礼(礼節)、樂(音楽)、射(弓)、御(馬術)、書(文学)、数(数学)の六芸(りくげい)が士であることの条件とされました。
他の大学では、3、4年でどのような専門分野に進むにしても、前期1、2年の教養課程では、経済学や法律学といった社会科学、歴史学や文学といった人文科学、さらには数学や物理学といった自然科学など、あらゆる領域のさまざまな学問を、幅広く一般教養科目として学んでおくことが必要だと考えられています。
そこには、さまざまな学問に精通しているという基礎的なことが、将来の専門分野の研究や学びにも有効に機能するという考えがあります。したがって、さまざまな学問を幅広く学ぶことがリベラル・アーツであり、最高学部で考えるリベラル・アーツも、そうしたものだという誤解があるようです。
64.自由学園の目指すリベラル・アーツは、どのようなものなのですか。
「自由学園型リベラル・アーツ」は、さまざまな学問領域をただ知識として学ぶだけでなく、学んだ多くの知見を使い応用して具体的な課題を解決するプロセスまで学ぼうというものです。62で述べた、「生活経営研究実習」や、「領域横断研究」は、その代表的な講義科目です。
直面した課題をめぐり、そこにどんな問題が隠されているかを発見することが出来る「問題発見能力」、そして、それを解決するには、どんな学問のどんな知見が利用可能か、あるいはどんな知見の組み合わせが有効かを見出すことのできる「問題解決能力」などを、学際的、総合的にグループで考え、身につけていくところに特徴があるのです。しかし、そうした学びには、いうまでもなく、さまざまな生活の実体験が必要です。これらの科目は少人数のグループで、共同研究されています。
この方法は、女子部・男子部で生活体験を身につけてきた自由学園で学ぶ者の特性を活かすことになるわけで、自由学園で学んだ者にしかできない方法だともいえます。
社会に出て最も必要なのは、直面した課題をめぐり、何がそこで問題なのか、どのようにしたらその課題が解決できるかであって、個別専門領域から何が解けるかではないと考えています。
そして、「自由学園型リベラル・アーツ」は、社会に出てから、最も必要とされるコーディネーターとしての能力を培うことになると確信しています。
65.その考え方は、どのように実際の教育に活かされているのですか。
総合的で自主的な人間を育てるという意味から考えると、自由学園の教育は幼児生活団(幼稚園)、初等部(小学校)、中等科、高等科からすでに全てリベラル・アーツであると言えます。創立者が言う「自らの志を持って、自分で自分を作り上げていく人間を育てる」ところにあるわけです。それを最高学部(大学部)において完成させたいという意味で、学部の教育は「リベラル・アーツである」と言っているのです。すでにお答えした「領域横断研究」にしても、一般の大学のように、個別専門領域を深く学びそれを用いて何ができるかを追求するだけではなく、テーマをめぐり問題を発見し解決する中で、個別専門領域を総合的、学際的に運用し活用する術を学ぶわけです。グループで学ぶことを優先するのも、そこでお互いが相互補完しあい、お互いが役割を演ずる中で、リーダーとしてもフォロワーとしても協力できる人を育てるためです。
6.卒業後の進路
66.自由学園の教育を受けて社会で活躍している人の名を挙げてください。
一部を紹介します。映画監督の羽仁進や羽田澄子、カメラマンの本橋成一、音楽家の村方千之、山本直純、紙谷一衛、羽仁協子、久山恵子。手芸家の久家道子、陶芸家の坪井明日香、俳優の本郷淳、岸田今日子など各界で活躍してきています。学会では、木下良作(河川工学)、篠遠喜彦(考古学)、山本明(高エネルギー加速機研究機構教授)、蟻川謙太郎(生物学、総合研究大学院大学教授)、牧師では古屋安雄(ICU名誉教授)など、幼稚園から大学までの教育関係者、また建築家では遠藤楽、大貫東彦などがいます。医師、歯科医、公認会計士、税理士、司法書士、弁護士、弁理士、舞台芸術家など各界、また産業分野では、一部上場企業から中小の企業、自営業、広告会社、IT関連会社、新聞社、銀行などでも活躍しています。
また、障害を持った人たちが集団で自活している施設「共働学舎」を設立した宮島真一郎、共用品推進機構を立ち上げた星川安之、元日本国際飢餓対策機構職員の森田哲也(現在、東京基督教大学助教授)など、福祉や国際協力関係でリーダーとしての働きをしている者も多くいます。
42でも述べましたが、自由学園の教育の目標は、必ずしも社会的に著名な企業で出世する者を送り出すことにあるのではなく、「地の塩」「一粒の麦」として地道な活動を通して社会に貢献できる人を一人でも多く送り出すことにあります。
67.大学院に進学するのに、学校教育法の大学ではないことが障害になりませんか。
現在ほとんどの大学院では、学士号は持たなくても、自由学園のように大学相当の勉強をしている場合には、大学院が受験資格を認定しているので、それをもとに修士課程の入学試験を受け、合格している人が毎年何人かいます。
早稲田大学のような私立大学だけではなく、国公立の大学院、また海外にも門戸が急速に拡大しています。(「コラムC最高学部卒業生の進路」参照)
67.大学院に進学するのに、学校教育法の大学ではないことが障害になりませんか。
現在ほとんどの大学院では、学士号は持たなくても、自由学園のように大学相当の勉強をしている場合には、大学院が受験資格を認定しているので、それをもとに修士課程の入学試験を受け、合格している人が毎年何人かいます。
早稲田大学のような私立大学だけではなく、国公立の大学院、また海外にも門戸が急速に拡大しています。(「コラムC最高学部卒業生の進路」参照)
コラムC最高学部卒業生の進路
自由学園の卒業生は、民間企業、NGO、文化芸術分野など、実に幅広く受け入れられ、多方面で活躍しています。最高学部には、学校教育法による大学の資格はありませんが、多くの企業、大学院に、4年制大学卒業者と同等の能力があるとして受け入れられています。
最高学部の卒業生の進路は、最高学部のHP内下記ページでご紹介しています。
最高学部「進路」
1.全員で集まって始まる一日
68.自由学園の一日の生活はどのようにして始まるのですか。
朝の本鈴(男子部)
女子部・男子部の毎日は、朝、各部のキャンパス中央にある芝生を囲むようにして全員が集まり、お互いの顔を見ながら「おはようございます」の挨拶をして一日が始まります。初等部(小学校)では運動場に集まって体操をしたり、ホールで朝の挨拶をしたりすることから一日の生活が始まります。各部ともに全員がお互いの顔を知り合っている人数なので、毎朝お互いの元気な顔を見て一日が始まるこの時間は、集団生活を大切にする自由学園にとって大事なひと時です。
その後、礼拝があります。礼拝は創立後ほどなくして始まり、各部ごとに食堂に全員が会する食事とともに、大切な時間として今に至っています。
月曜日は原則として女子部・男子部・最高学部(大学部)が集まる合同礼拝で学園長が話をします。他の日は部ごとに礼拝をします。「知識の詰め込み」を嫌った創立者は「宗教の詰め込みほど恐ろしいことはない」といって、創立当初は全体での礼拝はありませんでした。しかし、いろいろな機会に熱心なクリスチャンであった二人の創立者から話を聞いているうちに、讃美歌や聖書に触れた生徒の間から、創立して間もなく「皆で礼拝をしたい」との声が上がり、創立3年目から今の形の礼拝が始まりました。
「礼拝は、朝、皆で集まって神様に『おはようございます』とご挨拶をする時間だ」(* 28 ) と創立者は言っています。
(*28)『自由人をつくる』「なぜ礼拝をするか」
2.食を大切にする生活
69.自由学園では「食」を大切にしていると聞きますが。
先ほども触れましたが、自由学園では食事を全員で共にする時間を大切にしています。
食は命の源であるということを知り、食の営みにかかわりながら、人として欠かせない「感謝する心」と「教養」を身につけさせたいという創立者の思いがあったのです。
「食から学ぶ」を、生活に即した大きな教育機会とし、自然豊かな広いキャンパスを活かしながら、命を育てる─こうした「食の循環」を、成長過程に合わせて体感することを続けてきています。
このことについては、『食の学び一貫教育―自由学園生活即教育ブックレット』(2009年3月自由学園出版局発行)に詳しく記述されているので、お読みください。
70.食事は誰が作るのですか。
自由学園の食事は、年齢に合わせてそれぞれ各部ごとに毎日の献立が立てられ、毎食手づくりされています。具体的には、女子部は生徒が毎日各学年交代で、男子部では週1日高等科2年生が全員の昼食をつくっています。男子部のあとの5日間の昼食は在校生(都内近郊や地方)の保護者が交代で職員と共に作り、初等部(小学校)や幼児生活団(幼稚園)でも同様に保護者と職員が作ります。この食事作りでは、保護者の負担を軽減するために、卒業生の保護者や有志による「サポーター制度」を整え、温かい食事が提供できるように工夫されています。
女子部では今も薪でご飯を炊いています。薪は、広いキャンパスの樹木を最高学部(大学部)の学生が管理・手入れしたときのものなどを使います。
全校の食事に出るパンは、すべて学園内にあるパン工房で職人が作る焼きたてのパンです。
献立は各部ごとに立てられたものを、食糧部の栄養士が責任を持って確認しています。
「育ち盛りの子どもたちには、冷たいお弁当ではなく温かい食事を食べさせたい」(*29)との創立者の思いが、まだ世の中に給食制度のなかった創立当時から自由学園の食の基本となって今日まで続けられてきているのです。
(*29)『自由学園の教育』「実生活の指導4」
71.食糧部というところは何をするところですか。
「食」が自由学園の人間教育の大切な柱であることはお話ししましたが、その食の運営の責任を持っているのが食糧部です。
食糧部では全校の昼食と寮の朝・夕食を合わせて1日約1500食の食材を扱っています。また、9か所の台所で手づくりされている食事には多くの人がかかわりますが、そのすべての献立作りや調理全体を調整し、栄養面と衛生面での管理責任を持ち、変化する内的外的条件に対応しながら自由学園の「食」を支えている部門です。
現在、食糧部の複雑な業務をサポートしている「献立・発注システム」や、保護者の方々も自由学園のホームページでご覧になれる、学園の毎日の昼食の「画像付献立閲覧システム」がありますが、これらのシステムは、最高学部生が自分たちの食糧部での体験をもとに、最高学部で学んだ知識を活かして卒業研究として取り上げて開発し、実用化したものです。
72.食材はどのようにして調達するのですか。
食材調達は、安全性と経済性を考慮して、誤りなく発注をし、臨機応変な対応を求められる煩雑な業務です。その意味で先にご紹介した最高学部(大学部)の学生が開発したシステムは貴重なものです。食糧部では「食材調達のガイドライン」を設け、学園の方針を理解してくださる業者の協力のもと、安全が確認された食材を購入しています。極力「生産者の顔の見える」ことを大切にしたいと考えています。
2011年3月11日に発生した東日本大震災以来、社会では食における放射能のリスクを懸念する声が広まりました。自由学園では、放射能のリスクを最小にするために食材の産地分散化を行なっています。これは、「仕入れ食材の産地等を分散して同一地区のものを継続摂取しない」ということを基本とし、同じ人が同じ産地のものを毎日食べることがないように運営しています。
また、地元東久留米の産物の活用も考え、特産の柳久保小麦とそのふすまを使うなど地産地消にも取り組み、製品の特長を生かしたパンや料理の研究も推進しています。
73.学園内で生産される食材はどのくらいありますか。
豚を育てる(男子部中等科1年)
幼児生活団から最高学部まですべての部に畑があり、その時々に収穫した野菜が食卓に載ります。収穫量が多い場合は、全校の食事に出ることもあります。
男子部中等科3年生は「産業」の時間に、養豚、養魚、畑、果樹のグループに分かれて、それぞれの生き物を育てています。また、女子部でも農芸の勉強として、最高学部の農芸グループが立てた栽培計画により、全学年が関わり20種類以上の野菜を学園内の畑で育てています。
収穫物は食糧部に納め、食材として使われます。その量は、学園全消費量の中で決して大きいものではありませんが、全員が楽しみにし、大切にしています。
2011年3月11日の東日本大震災に伴う放射能問題の影響により、現在、那須農場(コラム3参照)は生徒の教育目的に利用しないことになっていますが、最高学部(大学部)の学生については、2013年度より一定条件つきで利用できることになりました。講義の一つ「日本の食・勇気米作りと頒布」(自由選択科目)を受講する学生たちは、那須の篤農家より稲作の指導を受けながら、お米作りに勤しんでいます。学内で消費するお米(年間22トン)は、東日本大震災による放射能問題への対応として、現在産地を分散して購入していますが、そのうち3トンは、この那須の篤農家に生産していただいたものになっています(毎回検査により安全性を確認済み)。その一部には最高学部の学生が田植えをして収穫したものも含まれています。この那須のお米を学園で使えるようにするために、最高学部の学生グループがビジネスモデルを研究して定着させ、さらには、そのお米を希望する父母にも頒布できる仕組みを構築しました。
3.働くことの教育的意味
74.自由学園ではキャンパスの維持や管理を生徒たちがしているのですか。
畑を耕す(女子部中等科)
自由学園の南沢キャンパスは10万㎡(約3万坪)あり、フランク・ロイド・ライト(「コラムBライト様式の自由学園の校舎」参照) の建築様式を受け継いだ建物群をはじめ、創立者が丹精をこめて創りあげた緑豊かな環境があります。「自分たちのことは自分でする」ことが人間教育の基本にあるという考えから、創立以来、自分たちの生活する場は、自分たちの労作によって護り整えています。 日々の掃除から不具合のあるところの修理まで、自分たちの出来る範囲で担当をしています。たとえば、南沢キャンパスのシンボルともいえる5000㎡(約1500坪)ある「大芝生」も、女子部の高等科1年生が担当して、芝刈り、除草、肥料散布などの定期的な手入れ、年1回の芝焼き、そして、必要に応じて専門家の指導を受けた芝生の張替えまで、生徒の働きでなされます。 「キャンパスの隅々までが人間教育のために考え抜かれた学びの場である」といってもよいと思います。
75.自由学園では「働くこと」を教育の中でどのように考えているのですか。
自由学園では、年齢(段階)に応じて自分たちのことは自分たちでする自労自治を人間教育の柱としています。また働くこと、すなわち自らが属する社会に対して持てる力を発揮していくことは、「社会をより良くすることのできる人間を育てる」ために必要不可欠なことだと考えています。
これまでもお話しした通り、「自労自治」においては、当然のことながら自分たちが生活する上で必要な衣・食・住に関することを全員で分担して行ないます。キャンパスの管理や、行事の運営の中心となっているのはすべて生徒・学生です。
最初は働かされているという感想を持つ生徒もいますが、キャンパスの維持管理のために働くこと、即ちキャンパスに自分が手をかけていくことで、生徒たちはキャンパスに愛着を持つようになり、その生活環境は自分たちの家である、という自覚を持つようになります。
76.自由学園の農場や植林地について教えてください。
那須農場 牛の間近で写生
これまで自由学園は、栃木県の那須に酪農を主体とする農場、埼玉県の名栗(なぐり)、栃木県の黒羽(くろばね)、三重県の海山(みやま)ではスギ・ヒノキの分収契約の造林地を保有してきました。
これらは創立者が、1935年(昭和10年)の男子部創設後まもなく、「南沢二万三千坪も、男子部の将来を考えると、狭くなってしまった。(中略)南沢は現在のままにして、普通の勉強をする場所に当て、どこかの山の中に五十町歩か百町歩位の場所を物色して、そこに山小屋を建てて、一と組ずつ交代で一と月位生徒を送る。山での勉強は労働と研究と静思だ。」(*30)という考えのもと、用意してきたものでした。
創立者存命中に実現したのは那須農場(1941年~現在中断)(コラム3参照)と、名栗植林地(1950年~)の2か所でしたが、創立者亡き後も、卒業生の教師が中心となって最高学部(大学部)の学生のための海山植林地(1966年〜2016年)と、2か所目となる男子部の黒羽植林地(1982年〜現在中断)での育林活動を始めました。また、名栗地区との交流も含めた新たな植林・育林活動の機会として、柏木正之氏(男子部19回生)が代表理事を務める(一社)名栗すこやか村と自由学園が活動協定書を取り交わし(2015年6月9日付)、「名栗柏木フィールド」が開始しました。今後、「名栗柏木フィールド」は、幼児生活団(幼稚園)から最高学部まで、全学的な学びの場・活動の場となります。
(*30)『雑司ヶ谷短信 上巻』「男子部の夢」
77.農場や植林地では、どのような働きをするのですか。
現在、植林地での労働は、高等科2年生が春と秋に名栗植林地で行なっています。(11参照)
日の出から日の入りまで、自然と向き合いながら1日働き「くたくたになる」という経験を通して得られる「達成感」というものは、自由学園の人間教育の中で重要なものです。技術面では作業を安全かつ効率的に行なうことや、道具の取り扱いなど、精神面では、仲間との団結意識や、強い忍耐力を養うなど、さまざまなことを労働を通して学びます。
東日本大震災以降、那須農場での教育活動は停止していますが、かつて男子部高等科1年と3年は那須農場での労働に、1週間から10日間行きました。農場では、朝5時に起床し、乳牛の餌やりや牛舎の掃除、圃場の石を出す作業や除草、竹林の整備や施設の修繕など、その時々に必要な労働に、農場職員と一緒になって取り組みました。
78.最高学部の学生のための植林地は、どのようなものなのですか。
最高学部(大学部)では男子の学生が、卒業までに2度、各1週間「名栗柏木フィールド」の労働に参加することにしています。「名栗柏木フィールド」での労働は、男子部で学んだ基本的な山の生活、作業を基礎に、より本格的な林業を経験します。
かつて海山植林では、地元の速水林業(コラム15参照)の速水勉氏に植林当初からお世話になりました。また過去には、渓流に水力発電所を作る研究や、海山の地域文化研究、また最近では、植林地の木々の成長を確認し、植林の成果を検証する卒業研究や、植林地やキャンパスのCO2の吸収量を調べる研究などが実施されました。
このように最高学部では、男子部から変わらない山での生活の上に、より難度の高い労働を経験し、さらには林業経営や環境問題とも関連させた研究へと発展させています。これは正に男子部高等科2年から最高学部4年までの6年間の、山における一貫した勉強と言えるでしょう。
なお、2017年12月に竣工した「自由学園みらいかん」の建設に用いられたヒノキのほとんどが、海山植林地で代々の学生が育てた木です。
「名栗柏木フィールド」は、自由学園に在学する幼児生活団(幼稚園)の幼児から最高学部の学生まで、それぞれの年代に沿って、自然教育活動を実践する場であるとともに、地元地域社会と連携しながら、針葉樹人工林の針広混交林化による明るい里山景観づくりを目的として活動する場でもあります。最高学部の学生は、社会貢献活動としての植林活動を通して、社会のために汗を流すことを経験するとともに、今後は、生産された木材のキャンパス内での活用や、木工品の製作・頒布など新しい勉強への展開が期待されます。
速水林業は、三重県において林道の整備による林業の機械化を中心に日本では先駆的な林業経営の合理化を進めており、また速水林業の山林は2000年に日本発のFSC森林認証を受けている。
速水勉氏の二人のお子様が自由学園に学ばれていたご縁で三重県海山に植林地を世話していただいて以来、林業について多くの指導をいただいてきた。
FSC森林認証制度とは
FSC(Forest Stewardship Council「森林管理協議会」本部:ドイツ)が運営する、適正に管理された森林と、その木材を原料とする印刷用紙や木工製品等の加工・流通過程を認証する制度。認証された製品にはFSCラベルが付けられる。
4.寮生活について
79.中等科以上の生徒には寮があるそうですが、寮について教えてください。
朝食の準備(男子部東天寮)
上級生が下級生を指導して
中等科以上の約3分の1は遠隔地からの生徒・学生であり、その人たちは寮で生活しています。自由学園の寮はただの寄宿舎ではなく、寮での生活が大きな教育機会であることが特徴です。寮は、24時間全員で協力して自治運営され、自分たちの手で出来ることは自分でするという「自労自治」の場なのです。
創立者は南沢にキャンパスを移した数年後に、著作の中で「通学本位であった学園が、いつのまにか寄宿舎中心に変りつつあるのは興味ある事実である。Dining-room(食堂)とDormitory(寄宿舎)と、この二つのDが教育の中心でなくてはならないと、誰かのいった言葉が思い出される。」(* 31 )と書いています。
(*31)『雑司ヶ谷通信 上巻』「二つのD」
80.寮に入る人はどのくらいいるのですか。
男子部では、家が近い人も入学して1年間は全員寮生活を送ることになっています。2年目からは家が近い生徒は通学することになりますが、寮に余裕がある場合は希望すれば入寮できます。自治の責任を持つ高等科3年生になるとほとんどの生徒が寮に入ります。全生徒の約4分の3が寮生です。
女子部は、中等科・高等科の約半数が寮生です。通学に1時間半以上かかる生徒が入寮しますが、委員期間中は家が近い生徒も寮生活を送るので、女子部も全員が寮生活を経験します。
寮では、24時間友達と生活し、自分のことは自分ですることはもちろんですが、また、全体の生活も助け合い分担して行ないますから、文字どおり「自労自治」の生活です。
寮生活は、友だち同士が表も裏もさらけ出し、互いの弱い面や問題点も知り、家族のような人間関係を学ぶよい機会となっています。寮生活を通して得た友だち関係は生涯続くケースが多いようです。
81.最高学部(大学部)ではどうでしょうか。
女子、男子とも約2割が寮生です。最高学部では下宿やアパートで一人暮らしをする学生もいます。
82.どのような寮があるのですか。
女子部中等科・高等科の生徒のために「清風寮」(せいふうりょう)、男子部中等科・高等科のために「東天寮」(とうてんりょう)があり、最高学部(大学部)には女子学生のために「光風寮」(こうふうりょう)、男子学生のためには「しののめ寮」があり、全部で4つの寮があります。(コラム16参照)
清風寮
「清風寮という名前には、武蔵野の自然の中の生活で、『お互いに清い風を吹かせたいという願い』がこめられています。」(開設時の学園新聞)
創立者は、シェリーの詩「西風によす」(Ode to the West Wind)にふれて、「清風寮というのはそんなことからつけた名だ。西風によせてこの世界に自由の風が吹きおこる」(*32)と話している。
東天寮
暁の東空、あるいは暁を告げ知らせる鶏といわれる「東天紅」からとられ、ここから、勇ましい鳴声を、日本の、世界の、教育の分野にあげたいう願いがこめられている。(『雑司ヶ谷短信 上巻』「自由学園十五年」)
光風寮
聖書・エフェソの信徒への手紙の中の「光の子として歩みなさい」からとられ、紙からの光のエネルギを十分に受けて、それをこの世に輝かせるようにとの願いがこめられている。(「学園新聞」517号 2000年5月号)
しののめ寮
1959年に「羽仁両先生記念事業」の最初の事業として建てられた「記念学寮」は2020年3月で閉寮となり、4月から「しののめ茶寮」3階部分が「しののめ寮」と名付けられ、最高学部の学生寮となりました。「しののめ茶寮」はかつては「東天寮」だった建物です。その一部が、再び学生寮として使用されることになりました。
83.清風寮や東天寮の寮生は外出や外泊はできるのですか。
基本的には平日の外出・外泊は認められていません。土曜日の放課後(2時ごろ)から日曜日の夕方までは外出・外泊が認められており、届けを出して外出します。
84.清風寮や東天寮の食事は誰が作るのですか。
清風寮や東天寮では朝食は寮生が順番に当番を出し調理を担当します。夕食は、清風寮では週に5日は部屋ごとで順番に料理当番をし、あとの2日は父母など大人の手を借りて準備しています。東天寮の夕食は調理員が作ります。
85.寮では自治生活をしているそうですが、どのように運営されているのですか。
楽しい夕食の一時(女子部清風寮)
生徒たちから選ばれた寮長が中心になります。その下に高等科3年生が室長になって自治生活の責任を負います。学年縦割りで一部屋6人から8人が同じ部屋で過ごすのが基本です。衣・食・住の大部分のことは寮生が協力して管理運営をしています。自炊当番、掃除、洗濯など、自分たちのことは自分で行なう自治の共同生活です。 寮長や室長は寮内の安全や寮生の健康にも気を配り、上級生・下級生が協力し合い、規律正しい中にも温かい寮生活を過ごします。 清風寮(せいふうりょう)は「私たちは兄弟姉妹」、東天寮(とうてんりょう)は「家庭東天寮」という言葉があり、その生活のあり方を示しています。
86.寮には職員はいないのでしょうか。
清風寮には、寮母さんがいて日中、具合が悪くて休んでいる寮生の病人食の準備をしたり、世話をしたりしています。また、夜は別の職員が一室に控えていて、相談事などのある寮生の話を聞いたり、非常時には寮長を助けます。
東天寮にも寮母さんがいて、日中、病人の世話や男子の目では行き届かない衣服や布団の管理などをして助けています。大人は生徒たちに助言はしますが、寮生の自治を重んじて寮の運営を寮生たちに任せています。
5.学びの成果の評価
87.各自の学びの努力は、だれがどのように評価するのですか。
基礎学科についてのテストはありますが、数回のテストの点数だけで生徒の能力評価をしたり序列をつけたりすることはしません。学科や生活における本人の努力とその進歩としての変化について、当該本人と教師が共に確認をします。
女子部と男子部では、生徒一人ひとりが一年間に自分が学んだことを『まとめ』という形にして学年度末に提出します。これには、教室で学んだ教科だけではなく、生活面のことも含まれます。何をしたか、何を学んだか。理解できたこと、理解できなかったこと。学びを通して感じたこと。来年度自分が励むこと。書かれる内容には統一した様式はありませんが、一人ひとりが自分の一年を振り返って書きます。
これに、担任教師と各教科の教師が講評を記して本人に返します。中等科・高等科の6年間の『まとめ』は、いわば、自由学園での自分史といえるものになるのです。
『まとめ』には、それを通して人間の持つ特性と可能性を発揮させ、その変化と成長を見るねらいがあります。『まとめ』は、1で自由学園教育の特色としてご説明した、「人間の能力を知識の多い少ないという点だけでは判断せず、人間にはいろいろな可能性がある」という認識の上に立った教育手法です。「学力の優れた生徒もいれば、運動能力の高い生徒もいる。友だちと協力して、ことを進めていくのが上手な生徒もいる。忍耐強く仕事を続けることのできる生徒もいる。いろいろな能力を育て、かつ、ひとつだけに偏ることなく、総合的に人間を育てる」という自由学園の教育の目的を果たすために『まとめ』は大切なものです。
88.勉強した成果を発表するような場があるのでしょうか。
女子部と男子部では、2年に一度「学業報告会」があります。クラス全員で一つのテーマについて学び発表する場合と、テーマごとにグループを作り、集中的に学び発表する場合があります。
学業報告会には保護者も多く出席します。教科の場合、その教科で何を学んだかだけではなく、全員で自主的にその学びを発展させた成果も報告されます。
この報告会は入学希望者にも公開されています。テーマは、教科から生活まで多様です。(コラム17参照)
初等部でも、2年に一度、一年間学んできたことを、保護者の前で、クラスごとに発表する「学びの発表会」があります。
【女子部学業報告会】
2019年11月30日(土) 9:30~16:00
【午前の部】 9:30~
・数学「平面図形について」(中等科1年)
・理科「私たちの星 地球」 (中等科2年)
・体育「世界が一つになるオリンピック」(中等科3年)
・曲作り
・女子部をよくするデザイン
【午後の部】 13:30~
・英語でのスピーチ:若者の政治参加
・現代の政治にどのように関心を持てるのか
・世界遺産と人のつながり
・Feminism
・さまざまな障がいについて考える
・木の学び
・未来の自由学園を考える
・生活文章
【ポスター等展示】
・金属と生活
・統計について
・1960年代以降日本で流行した歌について
・オリンピックを考える
・一から考える昼食作り「女子部の生活をより良くするために」
・私たちの服装の歴史と未来
・2019年度学業報告会ドキュメンタリー制作
・学業報告会運営
【男子部学業報告会】
2019年11月20日(水) 9:30~16:00
男子部(中等科・高等科)では、生徒の考えたテーマごとに希望者による学年を越えたグループを作り、学びを深めて発表をしました。
テーマ数が大変多いので、下記からプログラム(pdf)をご覧ください。
*2019年度男子部学業報告会プログラム
89.最高学部(大学部)では成績評価をどうしているのですか。
男子部・女子部とは異なります。履修科目ごとに春期と秋期、そして年度で評価をしますが、評価項目は「出席」「参加・積極性」「素点」となっています。
「出席」「参加・積極性」といった、出席状況や授業への参加意識や意欲を重視します。「素点」は、多くの場合ペーパーテストだけではなく、レポートでも評価されます。 特に、後期 (3、4年)では、グループによる研究と卒業論文が主体となるので、「参加意識」「積極性」のウエイトが高くなり、その結果が「卒業研究」の内容にもつながります。このような評価と指導は、少人数制だからできることでしょう。
90.最高学部(大学部)でも研究の成果の発表はあるのでしょうか。
最高学部では、グループで行なう科目について発表する「報告会」がいくつかあり、教師と学生に加えて父母が多く参加し、女子部・男子部の高等科の生徒も聞きます。
1、2年生の前期にある「生活経営研究実習」、2年課程の「卒業勉強」、4年課程の「卒業研究」については、「研究報告書・論文」が書かれて、すべての研究の発表が3月に行なわれます。
卒業勉強、卒業研究については、最終報告までに3回の「中間報告会」が行なわれ、参加者(学生、教員、父母)からの質問やアドバイスがあり、それぞれの研究の改善につながっています。
6.その他の生活
91.放課後の活動について教えてください。
いわゆる全員必修の部活動はありませんが、自分の好きなスポーツや音楽活動に打ち込むことができます。男子部では、サッカー、バスケットボール、テニス、剣道、転回運動が、女子部ではバスケットボール、テニス、バドミントン、剣道、フェンシング、転回運動、管楽器のアンサンブル、英会話、美術、文学、ダンスなどの活動が、それぞれ行なわれています。その他、男女合同のウインドオーケストラ(吹奏楽)と弦楽オーケストラがあります。スポーツでは対外試合も盛んです。
また、放課後の時間を活かして委員や公の係としての仕事に打ち込む生徒もいます。
92.生徒たちの健康管理や安全対策はどうなっているのでしょうか。
健康管理面では、保健室に相当する健康管理室に養護教諭が3名常駐し、風邪やけがなどの初期対応及び学園全体の保健管理に当たっています。夜間は寮生の急な病気やけがなどに対して寮長が養護教諭と連絡を取りながら適切な対応をしています。
非常勤のカウンセラーとスクール・ソーシャル・ワーカーがおり、生徒とだけではなく保護者の相談にも対応できるようになっています。
また、安全対策については、危機管理本部が中心となり、学内各部の教職員からなる「危機管理本部委員会」を構成し、学内の安全対策を実施しています。2011年3月に発生した東日本大震災以降、学内に「放射能対応チーム」を組織し、南沢キャンパス内の放射線量を定期的に測定しています。また、災害時の生活確保に対応して、在校生および教職員の7日分の水や食料を備蓄しています。
2020年は、新型コロナウィルスに対する感染予防対策も検討し、取り組んでいます。
93.女子部・男子部には制服はあるのでしょうか。
男子部には制服があります。女子部は、入学式などの正式な行事の時に紺のスーツを着用することが決められていますが、普段は決められた服装はありません。 これは、創立者が「女子は、自分の服装について、どのような服装が自分にとって、また環境に相応(ふさわ)しいかを考えて装いが出来ることが大切であり、それが勉強」と考えたからです。そして、自分に相応しい装いを考え、実践するためにも、「衣の学び」は美術教育も含めて大切にされています。(60参照)
94.生徒・学生の服装や持ち物については、どのように考えているのですか。
自由学園は「質素」を大事にしています。学園全体でも、シンプルライフ、つまり「生活は質素に、思いは高く」の毎日を目指したいと考えています。創立者は、著作集の『家事家計篇』の中で「よい生活をするための基本は、『経済』と『時間』と『労力』のムダをなくすこと」と言っています。学生生活でも、その時期しか出来ない大切なことに集中するためにも、無駄なこと、余分なことを極力排すことが基本です。この、質素な生活の上に、自由学園で学ぶ人たちは、自分たちのことを自分たちで決定し実行する人になっていきます。一例を挙げますと、男子部では通学時に着用する「制服」を、従来のものから新しいものへ変更したいという生徒が現れ、討議の結果、2015年度から新しい制服を着用することが決まりました。また、男子部は創設時から「丸刈り」を奨励してきましたが、近年生徒たち自身の中から声が上がり、髪型についての話し合いが活発に行われた結果、2017年8月から髪型は自由として、各自が男子部に相応しい髪型を考えて整えることにしました。このように、自由学園で学ぶ子どもたちにはみずからのライフスタイルを考えつくっていこうとする気概があり、その根底には「自治」(12参照)の精神が綿々と流れています。
1.校納費などについて
95.自由学園に子どもを入れると、校納費はどれくらいと考えればよいのでしょうか。
東京都の私立学校と比較すると、初等部(小学校)は平均を下回っている水準にあり、中等科と高等科は寮費を除いておおむね平均的な水準です。
寮生の場合は、この他に寮費と食費などで年間50万円前後かかりますが、これは自宅にいても同じことでしょう。最高学部(大学部)の学費は全国の文系私立大学の平均よりはやや低い水準です。
学費は、私立学校が教育にどれだけ手間をかけるかで大きく変わります。大規模な学校は一般的に経営効率が高くなりますが、自由学園は少人数教育を実践しているため運営費が相対的に高くなるところ、ご家庭の負担を考えて抑えてあります。自由学園が教育にかけている人と手間や時間を考えると、学費は低すぎるとのご意見もいただいています。
なお、学費はときどき改定されますので、最新のものは自由学園に問い合わせてください。ホームページにも掲載しています。
96.どのような奨学金制度があるかを教えてください。
大きく分けて以下の四つがあります。
(1)公的機関によるもの
以前は「日本育英会」で高等科、最高学部(大学部)が一括して扱われていましたが、現在は高校生については、保護者が在住する各都道府県で扱い、大学生については、「日本学生支援機構」が扱うことになっています。中学生は義務教育なので、対象になっていません。
最高学部生に対しては、「日本学生支援機構」から最高学部4年課程は「大学」として、第一種奨学金(無利子)自宅通学月額2万円~5万4千円、自宅外通学月額2万円~6万4千円と、第二種奨学金(有利子)2万円~12万円があり、その中から選択して貸与されます。
女子の2年課程は「短大」として第一種奨学金(無利子)自宅通学月額2万円~5万3千円、自宅外通学月額2万円~6万円、第二種奨学金(有利子)は大学と同額が貸与されます。
高等科生に対して「日本育英会」が行なっていた事業は、各都道府県に移管され、東京都では「東京都育英資金」(神奈川県では「神奈川県高等学校奨学金」)と呼ばれ、月額3万5千円が貸与されています。
(2)地方生奨学金
主として、地方出身の生徒(家庭)に対して、自由学園入学後、寮生として納付する寮費または寮費と寮の食費の一部を支給する制度です。原則として返済は不要で、最高学部卒業までの期間支給されます。
詳しくは、下記のページをご覧ください。
男子部「地方生の方へ」https://www.jiyu.ac.jp/boys/admission/scholarship.php
女子部「地方生の方へ」https://www.jiyu.ac.jp/girls/admission/scholarship.php
奨学金支給の決定は、常任理事会においてなされます。
(3)学校法人自由学園 羽仁もと子育英基金
自由学園の思想と実践を深く理解し、共有していただくご家庭のお子様をお迎えしたいとの願いから、自由学園を応援してくださる方々からお寄せいただく寄付金から2017年に創設された基金です。ご家庭の経済状況が変わらない場合は、最高学部卒業まで、授業料の半額が支給されます。支給の決定は、常任理事会においてなされます。
紹介ページ:「羽仁もと子育英基金」https://www.jiyu.ac.jp/ikuei/
(4)自由学園最高学部研究奨励金
最高学部生の自主的な学びを奨励し、研究活動における経済的制約を緩和することを目的として、審査のうえ研究奨励金が給付されます。
公募期間は毎年11月下旬で、「海外での学び」の給付金は毎年8名を上限として各10万円以内が、「国内での学び」の給付金は毎年10名を上限として各5万円以内が支給されます。
学生は在学中にそれぞれ1回ずつ受給可能で、高等科から推薦(R方式)で進学する者は進学時にも別枠で申請可能です。
紹介ページ:(在校生へ)研究奨励金 https://www.jiyu.ac.jp/college/students/grant.php
97.自由学園には、学園を支える組織がいくつかあるようですが、ご説明ください。
まず生徒の保護者によって構成される「保護者会」があります。初等部(小学校)では1学期に2回(あるいは年6回)、女子部・男子部では年に3、4回、保護者会が開かれます。その保護者会や食事作り(70参照)の運営のために、名簿順で近県在住の保護者が1年交代で委員となって、教師と協力して運営にあたります。
さらに自由学園を金銭的に、あるいはボランティアで支えてくださる「自由学園協力会(*33)」の存在があります。協力会には、卒業生の団体である「卒業生会」(女子部)、「同学会」(男子部)、保護者会、学園の教師、卒業生の保護者、婦人之友社、全国友の会などが加わっています。
(*33)創立10年を迎えた頃、創立者が教育のことのみならず経済面でも心をくだき大変に苦労されていることを知った保護者の中から、「羽仁両先生には教育に専心していただくために、父母にもできる協力をしよう」という声が上がり、経済面を助ける後援会が創立10周年に発足した。創立者はこのことに深く感謝し、「協力会」と名づけられた。
「協力会」は、その後も発足当時の熱心な思いが受け継がれて、学園に連なる人々の間で輪が拡がり、現在は学園経済の一端を担うまでになっている。
2.自由学園の組織
98.学校法人としての自由学園の組織を教えてください。
こちらをご参照ください。理事会は自由学園の最高意志決定機関であり、その委任を受けて常任理事会が主要な事項を決定しています。その議長を理事長が務めます。理事会の諮問機関として評議員会があり、婦人之友社、全国友の会、卒業生、教職員のそれぞれ代表と、学識・実務経験者で構成されています。
3.自由学園の関係団体
99.自由学園に関係がある組織にはどのようなものがあるのですか。
創立者が興した組織は三つあります。羽仁夫妻は自分の思想と理念を社会に問い、実践して広めるために、1903年にまず雑誌を発刊しました。それが『婦人之友』(発刊当初は『家庭之友』)であり、社会に新しい生活を提唱し続けて110年を超えます。現在は他に『明日の友』(中・高年向)と『かぞくのじかん』(幼児・小学生を持つ家庭向)があり、生活に関する書籍も多く発刊しています。(こちらをご参照ください)
その愛読者が集まってつくられたのが「友の会」で1930年に結成されました。自由学園と同じ「思想しつつ 生活しつつ 祈りつつ」を掲げて、全国と海外に184の拠点を持ち、会員自らの生活の改善をグループで励まし合い、地域に対して働きかけをしています。自由学園はこれら組織と一緒に三団体をかたちづくり、社会に対してそれぞれの役割を果たして、社会を良くするための働きかけをしています。東日本大震災後の支援活動や子どもたちのための活動なども、協力して行ってきました。
100.自由学園が受け取っている寄付は、自由学園協力会からだけですか。
自由学園に関係する団体である婦人之友社や全国友の会から、定期的に資金援助をいただいています。
その他に、自由学園の傘下に「株式会社 自由学園サービス」という収益事業部門があります。ここには明日館(会館事業と公開講座を運営)、自由学園生活工芸研究所、食事研究グループがあり、自由学園に毎年相当額の寄付をしています。また個人の方や企業からも直接寄付をいただくこともあります。
おわりに -学園長 高橋和也
今、社会は大きな転換期を迎えています。環境破壊、紛争やテロ、貧富の格差等々、様々な局面でこれまでの世界の枠組みが大きく揺らぎ、先の見えない状況が広がっています。また社会の大きな変化に伴い、10年後に社会に出る子どもたちの半数は、今は存在していない職業に就くだろう、といった予測もされています。今教育を受けている子どもたちが生きてゆく未来の社会は、このような正解のない問いに向き合い、自ら新しい道を切り拓いていくことが求められる社会です。
このような状況で思い出されるのは、アインシュタインの「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセットのままで、その問題を解決することはできない」という言葉です。マインドセットとは物事に向かう心のありかた、価値観や思い込みなどの意味です。たとえば、原発事故を生んだ経済最優先の発想のままで、この問題の解決の道を見いだすことはできないということです。これは教育についてもいえることで、より多くの知識を機械的に覚えこみ、いくつかの選択肢の中から正しい答えを選び出す従来の教育のあり方そのものが見直されなければなりません。
教育は未来を創る人を育てる重要な鍵と言われますが、私たち大人が自分たちが受けた教育を繰り返していては、今大きな変化の中にあるこの時代の抱える問題に立ち向かえる人を育てることはできないという状況にあります。そのため世界中で、教育自体のマインドセットの転換が求められ、新しい教育のありかたが模索されています。
この新しい教育の中心課題は、「どれほど多くの知識を暗記しているか」ではなく、「いかに自ら学び自ら考える力を育てるか」という点におかれています。またこれに合わせて、「知るための学び」から、「共に生きる社会を創るための学び=Learning to Live Together」、「自分自身を変え社会を変容させる学び=Learning to Transform Oneself and Society」こそが重要であると考えられるようになりました。
自由学園の創立者羽仁もと子先生は今から80年以上前に、まさに自分自身を変え社会を変容させる学び、共に生きる社会を創るための学びの実現を目指して、当時の教育と社会のマインドセットの転換を求め、「学校は単に社会に人材を送り出すところであるという思いにかえて、教育は新社会をつくるものであるという信念を打ち建ててゆきたい」と述べています。1932年、日本が中国大陸に侵出し、国際社会からの孤立を深めていく時代状況の中、フランスのニースで行なわれた第6回世界新教育会議でのことです。教育の刷新を願う世界各国の教育者が集まるこの会議の席で、自由学園における教育実践と卒業生の活動を紹介し、教育こそが平和な新社会をつくる、と理想社会の実現を目指す教育の重要性を訴えかけたのです。
教育には、時代の要請に応えて、その時々の社会を支えるために必要とされる人材を社会に送り出す役割が課せられています。近代化が急務とされた時代には近代化を支え得る人材が、戦時下においては戦争遂行を支え得る人材が育成されてきました。今盛んに求められているのは、グローバル化する競争社会をリードするグローバル人材です。
しかし木材が使い手によってさまざまな用途に用いられるように、人材という言葉には、使い手の都合によっていつどのように動員されるかは定かではなく、利用価値として人間をとらえる響きがあります。
自由学園が目指す教育は「人材」教育ではなく、こうありたいという主体性と希望を持った人間を育てる「人間」教育です。主体的に自ら考える力を持った人間は、時に社会の枠組みそのものに疑問を投げかけ、社会のマインドセットの転換を求める存在にもなるでしょう。私たちは、そこにキリスト教を土台とする人間教育の価値があらわれると考えています。
「新社会」とは、今はまだ存在しない未知の社会です。このような社会にあって豊かな人生を切り開き、自分の周囲によりよい社会を築き上げていくためには、どのような力が必要なのでしょうか。私たちは、目の前の社会の抱える問題を発見し、よりよい未来の社会のビジョンを描き、その実現に向けて仲間と手を取り合って試行錯誤を重ね、祈りつつ歩み続ける力が必要であると考えています。これらの能力は、過去を模倣し既存の社会を持続させる力とは別種の、主体的で創造的な力であり、極めて人間的な総合的な能力といえます。
自由学園の学びの特色は、これらの能力を実生活に根ざした学びを通じて深く「身」につける点にあります。
自由学園は2016年4月15日、創立95周年を迎えました。創立100周年に向けて、よい社会の小さなモデルとしての学校づくりを進めるとともに、よりよい未来をつくる人を育てるための教育の力を一層高め、学校そのものが変容することを恐れず、命ある生命体として常に社会の課題を学び続ける学習する学校でありたいと思います。
■自由学園は2021年4月15日に創立100周年を迎えました。
次の100年に向けて歩みだした自由学園では、この機会に学校改革を始めています。詳しくは、「創立100周年特設サイト」内下記ページでご紹介していますのでご覧ください。
「共に生きる社会を創る学校を目指して ― 共生共学・生活即探求―」