第18回 二月歌舞伎座公演パンフ「廓の粋と野暮」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第18回 二月歌舞伎座公演パンフ「廓の粋と野暮」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第18回 二月歌舞伎座公演パンフ「廓の粋と野暮」

2016年2月17日

二月歌舞伎座公演。15日、16日と、昼の部、豊臣秀吉の半生を描く、吉川英治作「新書太平記」。夜の部、宇治川の先陣争いを背景にした「源太勘当」(『ひらかな盛衰記』)、吉原千人斬りを題材にした「篭瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」、そして、切の「松風村雨」伝説の舞踊「浜松風恋歌」などを、一気に見る機会がありました。
中では、やはり、世話物の名作「篭釣瓶」。吉右衛門の佐野源左衛門・菊之助の花魁八ツ橋です。2010年、やはり二月に、勘三郎・玉三郎の源左衛門・八ツ橋(これは、シネマ歌舞伎になって映画館で上演されたりしています。この解説パンフにも拙文。)を見ていますので、馴染みの作品です。
吉右衛門のおどけたモテぶり、凄惨な殺しへの見事な変化に息をのみました。
今回は、何と云っても、菊之助が抜群の出来でした。「新書太平記」の信長の妻濃姫そして、八ツ橋。水を打ったような静かな劇場に、桜満開の仲之町見染の道中。夢の異空間です。
「つくづくいやになりんした」の台詞は、単なる愛想づかしを越えて、遊女の人生そのもの悲しみが、込み上げてきました。演技には若さのよさがありました。
などと、勝手なことを思い描く楽しみが歌舞伎にはあります。
今月の筋書きパンフレットに拙文。
以下のようなものです。演目とは、少しかすっていますが、ほとんど関係はありません。産業技術大学院と自由学園最高学部との共催セミナー最終回でも触れましたので、引用しておきます。

「廓の粋と野暮」
「男を磨く」という表現があります。「男を作る」などとも云います。身なりを整えで、女性<殊に遊女>に愛されるようになるということですが、外見ばかりではありません。内面的にも成長することです。
もう少し平たく云えば、「遊女にもてる男を磨く」方法ということになります。
そして、「男を磨いた」結果、男が立ち、男一匹、「粋」な男になります。
「粋」は、「すい」とも、「いき」とも云います。
「すい」は上方、「すい」は江戸での云い方です。上方の文化が中心であった江戸時代前期、18世紀の中頃までは、「すい」という云い方の方が、優勢であったのですが、後期になって、江戸の文化が隆盛になると、「意気」という意識と折り重なって、「いき」という云い方が一般的になりました。
「いき」が、文化の大衆化と共に、江戸っ子意識の権力への反発心のようなものを内包したのに対して、「すい」は、京都を中心とする上層町人の教養主義に支えられています。
「野暮(やぼ)」から「粋(すい)」な男になるにはどうしたらいいか。
このことに、真正面から取り組み<色道(しきどう)>の確立を目指した男がいます。
<粋(すい)の品格>男の美学ダンディズム、『色道大鏡』を書き残した藤本箕山(きざん)です。畠山箕山とも称しました。古典文化の復興期で日本のルネッサンスなどとも呼ばれている寛文期(1661-72)の上方文化サロンの中心的人物でもあります。
箕山の求めた、「男の磨き方」は、実に細かです。口臭厳禁。歯の磨きよう、爪の切り方、額、髭、眉などにも注文をつけます。脇差しは長く、印籠は黒い無地、巾着を前に下げるのは下品、鼻紙入れは薄く小さく、扇はおろしたては使わず、履き物は草履、次に雪駄。
持ち物などは目立たぬようにするのが大事な心得。
金を持っているなどと札びら(小判)を見せびらかすのは下の下。遊女も金と食べ物にはそっぽを向くのがタテマエ。
編み笠は真新しいものを用いずに少し使ったようなもの。遊廓に行く時も、目立ってはいけない、「それかあらぬか」の態が好ましいのです。
遊女へ手紙を書く時も、知識教養をひけらかしてひけない。座談の時のように自然な物言いで手紙も書かなくてはいけません。
はじめて約束して遊女に会う時、初会は、昼間に訪ね、少しの暇に(もちろん多忙でも、)会いに来ましたので、時間があっても時間がありませんと言って早く帰るのです。無理に相手を定めて床入りをするなどというのはもってのほかです。
遊廓に遊ぼうと思うものは、遊廓が培ってきたその品格に従って行動することこそが、<色道>にもっとも肝要であると云います。
箕山は、法華経二十八品に擬えながら好色の階梯・諸相を記し遊びの極意を伝えます。
まず初めは、<第一無性品(むしょうぼん)>。訳もなく無性に周囲の者に恋を仕掛け、やがて関心は遊廓へ、自分を飾り、もてたもてたと自慢する<第四宿慢品(しゅくまんぼん)>となり、手管で遊女を手玉にとったような気分になり、自分は好色の道をよく理解した者だと錯覚します。これが<第六瓦智品(がちほん)>、恋に盲目などと言えば聞こえがいいのが、無我夢中の恋路、独りよがりの好色、ここまでが、野暮(やぼ)・初心の段階です。そして、やがて家を出され、自暴自棄となり、自分の迷いをようやく悟り(第十去迷品(きょめいほん))、自分を卑下して身をおさめる(第十一謙退品(けんたいほん))ここで粋も半ば、半粋(はんすい)。さらに、段階を踏んでようやくたどりつくのが、第二十三段階の「抜粋品(ばっすいぼん)」です。知略を表に表さず、徳が備わり、人と争うことなく、尊敬を一身に集め、「男女・貴賤共に此者の座席を望む事、もっとも切なり」と云います。
そして、第二十六極尽品(ごくじんぼん)では、粋も野暮もなく平等一心となり、やがて郭へ行くのをやめるようになるといい、終わりの第二十八太極品(たいきょくぼん)では、無心、空を悟り、円にして虚となるというのです。最終段階では郭に行くのを止めて仏になると言うのですから、やや絵空事の説教のような気もしないではありません。
しかし、男も女も、身分のある者も、賤しい身分の者に対しても、差別なく愛情を向けるので、すべての人が同席することを望む。それが<抜粋>であるという人生哲学の到達は傾聴に値するのではないでしょうか。
粋は一説に<推>の字を当てていますが、相手の気持ちをよく理解する遊びの理念です。さらに粋には<水>の字も当て、身を飾り巧むこともなく、自分に色をつけることなく相手の色に染まるということでもあります。このような考え方が、この時代回避できない制度として存在した買売春制度の郭の中の<遊びの哲学>として成立したのです。
現代の「男を磨く」男たちにとっても学ぶべきことのようです。

17日の午前中、BS-TBS『にっぽん!歴史鑑定』「吉原の花魁」でのインタビュー。
放映は3月7日月曜日夜10時からです。

2016年2月17日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)

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