あの震災を、自分の言葉で表すために

あの震災を、
自分の言葉で表すために

山田 徹
Toru YAMADA

映画監督

男子部 62 回生

2017年3月30日談

映画が上映されたポレポレ東中野のビルで

被災地の人たちの心象風景を

 今年3月、初監督した映画『新地町の漁師たち』をポレポレ東中野で劇場公開し、800人以上の方に見ていただくことができました。学園にいたころから自分の人生は自分で切り開いていかなくてはとずっと考えてきました。2011年の東日本大震災発生後、当たり前にあったものが崩れ去り、ある意味リセットされた状態になったとき、これから自分はどう生きていくのかを見つめ直したかった。そのために震災を自分の言葉で語りたいと思ったことがきっかけで、この映画を作りました。

 

震災当時、僕は東京の記録映画の製作会社で働いていましたが、撮影の地に福島を選んだのは、やはり原発が爆発したことがショッキングだったからです。当時の報道は、ただ状況を生々しい情報として写しているだけで、どうも自分事として捉えられなくて。その中で、和合亮一さんという福島在住の詩人が、心の風景を詩に書いてツイートしていました。それは一種のドキュメントでもあるのですが、その詩が被災者の気持ちを代弁しているようにも感じて、すっと共感できたんです。僕もそういう被災地の人たちの心象風景というか、震災前の時間と、震災後の時間を描けるような映画を作りたいと思いました。

 

和合さんの作品に新地町の駅と海について語った詩があって、それを詠んだことがきっかけで福島県新地町に行き、漁師さんたちを撮るようになりました。東京で仕事をしながら、新地町には月1回、3泊4日くらいのペースで通いました。

何をしたいのか問い続け、真実を自分で見つけるしかない

真実が見えたら自由になれた

 撮り始めた当初は、福島のため、という社会的使命感は一切なくて、ただこの震災という出来事を、自分の言葉で見出していきたいという、個人的な動機しかありませんでした。撮影当初は福島の漁業は原発災害の影響で自粛態勢、魚のモニタリング調査やがれき撤去などの限られた仕事しかなく、それ以外、漁師さんたちはすることがない。撮影しながら、終着点が見えない不安に襲われました。

 

制作中は、映画がいつできあがるかもわからず、現地に行けば自分は何者なのかを常に問われました。後々、特に深く関わるようになった漁師の小野さんは、僕が最初に自転車で浜に行ったとき「不審者がきた」と思ったそうですし、その後も漁師さんたちは、「毎月通ってきて俺たちを撮ってはいるけれど、映画はいつできるんだ? こいつは大丈夫なのか?」という不信感を持っていたと思います。同時に自分の中には、社会的不安、つまり僕はこの道で食っていけるのだろうか、という悩みもあって。でも、この道に進んでしまった以上は勝負をつけなくてはいけないので、「やってやるぞ」という信念もありましたね。

 

いろいろ迷ったり悩んだりしながら撮り続けているうちに、2013年に試験操業(*1)が始まり、東京電力の地下水バイパス計画が出てきた時、初めて僕の中で何を撮るかが決まりました。地下水バイパス計画は、原子炉建屋内に入る前の地下水を海洋放出して、汚染水の増加を減らす対策です。この実行の判断を全面的に漁師さんたちに問うという前代未聞の事態になり、これは記録しなければと思ったのです。マスコミの視点とは違う漁師さんたちの立場で、どういう思いで賛成、または反対しているのかを、広く知ってもらいたいという気持ちになりました。

 

それからの撮影は、漁師さんへの質問も的が絞られてきて距離感がぐっと縮まり居心地がよくなった。それは同時に、自分が伝えたい真実が見えた時でもあったと思います。ドキュメンタリー映画というのは約束があるわけでもないし、ルールもない。自分が何をしたいのか問い続け、真実を自分で見つけるしかないんです。それが見えた時、表現の面でも自分が開放される感覚があって、自由になれた。これは「真理はあなたたちを自由にする」という、在学中に何度も聞いた言葉にもつながると思いました。

初監督作品『新地町の漁師たち』

何を伝えたいのか、が大事

 学園を卒業した当初は、大学院へ進学してメディア論を勉強したいと思っていました。聴講していたある大学の講義で、仏文科の先生が『ダーウィンの悪夢』(フーベルト・ザウパー監督/2004年)や、『ゆきゆきて、神軍』(原一男監督/1897年)を見せてくれたんです。初めてドキュメンタリー映画の世界を知り、こんな自由な表現方法もあるのかと魅力を感じて、羽田澄子さん(*2)の自由工房に入りました。

 

映画の世界に飛びこんだものの、最近まで「映画監督です」とは言えませんでした。極端な話、作った映像を、例えばYouTubeにアップすれば、誰でも「僕は映画監督です」と言える。でもそうではなくて、映画を使って社会に何を伝えたいのかが問題です。今回の作品が出来て初めて、僕はやっと映画監督ですと名乗れるようになり、この道で進んで行こうと決心がつきました。自分の作品を社会に送り出し、責任をとる覚悟ができたからだと思います。

 

*1 安全と確認された漁場と魚種を対象に、決めた分のみを獲る漁。

*2 自由学園女子部23回生。記録映画作家。

山田 徹(やまだ とおる)

1983年生まれ。2006年自由学園最高学部卒業。映画美学校ドキュメンタリー科を経て、2009年からドキュメンタリー映画の製作会社である自由工房に勤務。羽田澄子監督に師事する。2011年3月11日の東日本大震災から4年半をかけて映画『新地町の漁師たち』を完成させる。2016年、映画初監督となる本作でグリーンイメージ国際環境映像祭グランプリを受賞。