農業は隣人愛の具体的な実践

農業は隣人愛の
具体的な実践

佐々木 摂
Osamu SASAKI

農業

男子部 52 回生

2019年8月9日談

野辺山にある広大な農園。林に囲まれた畑では、白菜、レタス、キャベツがぐんぐん育つ。

妻の祖父が開拓したこの土地で

 今朝は4時半から収穫作業を始めました。夏期の白菜、レタス、キャベツを栽培していて、ワンシーズンの出荷数は3種合わせて約4万箱になります。一箱15キロを超える白菜を今は二箱まとめて軽々担げますが、いきなりこうはできません。出荷量の少ない春先から少しずつ身体を慣らし、夏にマックスで働ける身体にします。

 

1年のスタートは3月の種まきから。ハウスの中で育苗し、4月には畑を起こしてビニールマルチを張り、5月に定植が始まります。5日おきに少しずつ種をまき、順番に定植を進めます。6月から収穫が始まり、最後の収穫は10月半ば。その後は12月の畑が凍る前までに堆肥を入れて耕し、翌年に備えます。春先までの3か月間はDIYをしたり、5人の子どもたちと遊んだり、旅行をしたりして休暇を楽しんでいます。

 

八ヶ岳を背にした高原の畑は、戦後、妻の祖父が切り拓いた土地。標高が1300メートルあり「農業をしても食べていけるはずがない」と言われた場所でした。冬の寒さが厳しく、途中であきらめて移住した人も大勢いたそうです。その中でも70軒ほどの農家が残り、現在の野菜の大産地が築かれました。当時の農協が広大な土地をまとめて分譲したので、各農家が7~8ヘクタールのまとまった畑を持っており、大きな機械で効率的に営農しています。当時の農協は先見の明があったようですね。

 

夏場の白菜やレタスは90%くらいが長野県産ですが、そのうち80%がここ野辺山と川上で作られます。農家はその誇りを持って働いているし、経済的にも安定しているのでほとんどの家で後継者が育っています。これは全国的にも珍しいこと。元気な20代30代はもちろん、40代50代60代70代とそれぞれの世代がいます。地域の産業としては、理想的ではないでしょうか。

アメリカ製の大型トラクターに白菜を積み込み、出荷場へ。

農業で社会とつながる生き方がしたい

 農業に興味を持ったのは、学部の時です。自由学園の教育を受ける中で、人任せではなく自立した生活がしたいと思い、それを追求して農業に辿り着きました。当時の僕は農業というより自給自足の生活がしたいと考えていました。

 

学部1年の時、ふとしたきっかけで埼玉にある共働学舎(*)の畑を手伝うことになります。夏には信州の真木共働学舎に行き、そこの生活をすっかり気に入ってたびたび通うようになりました。そして2年になると、共働学舎の宮嶋眞一郎さんから「農業に関心があるなら愛農高校に行きなさい」と言われます。キリスト教精神に基づく農業高校で、後に教員として働くことになる学校を、その時初めて訪ねました。

 

4年の春には愛農高校で開かれた農業講座に参加しました。そこで創立者の小谷純一先生から聞いたのは「農業は隣人愛の具体的な実践だ」というお話。自給自足で農業をすればいいと考えていた僕にとって、世界が一変するほどの衝撃でした。ならば生産農家となって社会と繋がる生き方がしたいと、あらためて農業を志したのです。

 

学部卒業後は、八ヶ岳中央農業実践大学校で野菜の栽培を1年勉強。当時の僕は自信満々で、愛農高校の校長と教頭が八ヶ岳まで来て「教員になってほしい」と言われたのに、自分で農業がしたいと断りました。そして、埼玉の畑に戻ってアルバイトをしながらお金を貯め始めた矢先、交通事故を起こします。生きるか死ぬかの大事故で、3カ月の入院。入院中まだまともに歩ける状態ではなかった時期に「それでも来てほしい」と言ってくれた愛農高校に救われました。

 

(*)共働学舎:障害を持つ人、今の社会で生きづらさを抱えている人が農業をしながら共に生活する。信州、北海道、東京にある。

夏は早朝から、妻、妻の両親、インドネシアからの実習生と共に働く。

人が幸せに感じることのほとんどがここに

 愛農高校では農業教員として14年間のびのびと勤めさせていただきました。妻は愛農の卒業生で、卒業してから10年後に再会しました。当時の彼女は実家に戻って農業を始めたばかりでしたが、農業を一緒にやろうというパートナーがなかなか現れません。農業を諦めるか、結婚を諦めるか悩んでいた彼女に「そんなの簡単だよ。僕と結婚すれば悩みは解消するよ」と言いました。

 

彼女の希望が祖父の開拓した畑を継ぐことなら、僕の希望は農業を生業とすることです。朝から日が暮れるまで懸命に働き、いつも傍に家族がいて、子どもたちの成長を見守ることができる。そして毎日おいしいごはんが食べられる。ここには人が幸せに感じることのほとんどがあります。しかもそれが隣人愛の具体的な実践になると思えば、それ以上に求めるものはありません。

 

7年前に愛農高校を辞めて野辺山に移住し、義父から2年前に農業経営を受け継ぎました。腰に下げているこの革のケースは、自分で作った収穫用の包丁入れです。男子部時代の聖書讃美歌入れの要領で作りました。妻にも作ったのですが、それを見たお父さんが羨ましそうだったので(笑)父の日にプレゼントしました。その後、お母さんにも作ったので、家族みんなでお揃いです。祖父、そして両親が築いて来たこの地での農業を繋ぎながら、地域の中でしっかり生きていきたいと思っています。

手に持っているのは手作りの包丁入れ。後ろに見えるブランコも手作り。

佐々木 摂(ささき おさむ)

1973年生まれ。自由学園男子最高学部卒業後、農業を志し八ヶ岳中央農業実践大学校で1年間学ぶ。三重県にある愛農学園農業高校の教員として14年間勤めた後、長野県南牧村野辺山で妻の実家の農業を継ぐ。