専門分野がないことが翻訳家としての強み

専門分野がないことが
翻訳家としての強み

中林 もも
Momo NAKABAYASHI

翻訳家

女子部 76 回生

2021年3月5日談

都内の仕事場の近くで

初めての洋書は小学六年生

 生後8か月の時に父の仕事の関係でアメリカに渡り、2年半ほど住んでいました。言葉が出るのが極端に遅い子どもで、3歳になっても喃語で親をハラハラさせたようですが、ある日突然、ブラジル人のベビーシッターにポルトガル語で「水がほしい」って言ったそうです(笑)。それからは両親に日本語、周囲には英語、ベビーシッターにはポルトガル語と3か国語を分けて話していたそうです。幼稚園で帰国して、英語とポルトガル語は徐々に忘れてしまったのですが、小さいときにできた脳内の言語の区分は、今でもそこにある気がします。

 

小学生の頃、両親に「英語ができるようになりたい」と相談したら、「背表紙を並べて何メートルにもなるぐらい英語の本を読むといい」と言われました。当時、鎌倉の家にはよく海外のお客様もいらしていたので、英語で話すことに苦手意識はありませんでした。学園時代も洋書はよく読んでいて、高等科の頃に流行した『ソフィーの世界』も原書で読みました。

 

初めて外国で一人暮らしをした場所は、留学したカナダのモントリオールでした。大学受験の二次試験では、英語話者が大半の中で、英作文の成績が上位10%に入りました。作文は、語彙と文法がある程度できれば、その先は文章の構成力の勝負です。学園で事あるごとに作文を書いていたことが、力になっていたのでしょう。

原語の原稿と辞書を開いて翻訳作業を進める

AIの機械翻訳がどれほど進化しても

 3年学んだマギル大学は飛び級で卒業して帰国。最初の就職先はウェブと翻訳の会社でした。そこで機械翻訳をテストして評価する仕事を担当しました。機械翻訳は、昔よりずいぶんよくなったと感じる人も多いと思いますが、それは精度向上のために、繰り返し修正を行い、AIが経験を積んできたからです。私は今でも、グーグル翻訳などで精度が悪ければ、翻訳を直しています。報酬のあるなしに関係なく、それは私たち翻訳家が楽になることにも繋がります。AIによって人間の仕事が奪われるといいますが、人間とAIは互いに協力する関係なんです。

 

翻訳家というのは、言葉を置き換える人と思われがちですが、実はライターです。日本語が書ける人が、誰でも雑誌の記事を書けるわけではありませんよね。それと同じことが翻訳にも言えます。翻訳家というのは、ある文化を別の言語で表現する人。

 

たとえば洋画を見ていると、よくジョークが出てきます。そのまま訳すと、通常は日本語の文脈には沿いません。駄洒落であれば、日本語でも駄洒落になるように訳します。面白いことを言おうとしたのか、皮肉を言おうとしたのか、言葉選びよりもシチュエーションが大事です。そのための人物理解や状況理解の感覚は、常にアップデートしなければいけません。

 

たとえば「I love you」ひとつとっても、日本語では何百通りもの訳し方がある。誰が言ったのか、どんな状況なのか、相手との関係性はどうなのかで違うんです。だからAIがどんなに進化しても、翻訳者はいなくならないと思います。

留学中、父と訪れたシアトルで

「できない」と言ったことはない

 日本語から英語、英語から日本語。私はどちらの翻訳もやりますが、どちらかというとやりやすいのは日本語から英語。日本語はやっぱり言葉の選択肢が幅広いので大変です。今は海外のゲームを翻訳することが多いのですが、医学論文の翻訳や、企業広告のコピーを担当するなど、仕事は多岐に渡ります。

 

翻訳家になるために、特別な勉強をしたことはありません。最初は翻訳会社の英語力試験を受け、「やる気がありそうだから、オンジョブトレーニングをしないか」と言われ、鉄鋼系の日刊業界紙の英訳チェックからスタートしました。

 

「できるか、できないか」と聞かれた時、「やったことがない」とは言っても、「できない」と答えたことはないんです。経験はなくても、どうすればできるか考える。これは、学園で身についたことです。その結果、できることが一つ一つ増えてきました。

 

学園時代は数学が好きで、大学でも数学を学ぼうと思っていました。でも、やってみたら「何か違う」と感じ、経済学を専攻、考古学とロシア語を副専攻しました。分野の壁を取り払うと、視野がパッと開ける感覚がありました。小学生の頃から目指しているのは、専門を持たないジェネラリストです。分野を区切ると、その間に落ちてしまうものがある。どの分野にも属さないものを拾って繋げられるのが私の強みです。専門がないので常に「勉強しなければ」という気持ちになり、謙虚でいられます。

 

翻訳家になったのは、慢性疲労症候群で会社を辞めたことがきっかけでした。今では寛解しましたが、疲れやすいので、いつか肩こりの起きない椅子を作ろうとしています。考古学で肩こりは、人間が二足歩行を手に入れたことによるデメリットだと学びました。大学での学びも翻訳の仕事も、私の中ではすべてが繋がっています。

「時代の空気を読み、状況理解の感覚は常にアップデートしています」

中林 もも(なかばやし もも)

生後8か月から3歳までアメリカで過ごし、神奈川県鎌倉市で育つ。自由学園では中等科高等科を過ごし、最高学部2年の夏に退学してカナダのモントリオールにあるマギル大学へ留学。経済学専攻、考古学・ロシア語副専攻。同時に英語とロシア語の語学課程を修了。帰国後、ウェブ、広告、ゲームなどの業界を経て、慢性疲労症候群(CFS)の発症をきっかけにフリーランスの翻訳家に。