支えたいと思った人に支えられて、今がある

支えたいと思った人に
支えられて、今がある

神﨑 伸
Shin KANZAKI

牧師

男子部 56 回生

2018年8月10日談

自由学園みらいかんにて

きっかけは一冊の本だった

 私はいま、京都の日本福音ルーテル賀茂川教会で牧師をしています。母や祖父母がキリスト者で、幼い頃から教会は身近な存在でした。

 

私は下肢が不自由なのですが、それが原因で周囲から激しいいじめを受けることも多く、「なぜこのように生まれたのか」とうめき、反発し、問い続ける中で、礼拝で説かれる「神の愛」とは何なのかが、わからなかったのです。けれど(創立者の)羽仁もと子著作集『信仰篇』に書かれていたことは、なぜかストンと腑に落ちた。日々の生活の中に主イエスの言葉を見出した『信仰篇』は、「生きた言葉」として私に届き、響きました。

 

高等科2年生のとき、ひとりの先生が手渡してくれた『イエスとその時代』(荒井献、岩波新書)が目を開かされる転機となりました。そこで「聖書批評学」という方法論を知り、深く学んでみたいと思ったのです。すぐにでも神学校へ進みたい気持ちでしたが、やはりちゃんと卒業しようと最高学部に進学し、その後ルーテル学院大学の3年次(神学校予科)に入学しました。

京都の賀茂川教会にて(本人提供)

神学校始まって以来の問題児!?

 気持ちと勢いだけはあったので、聖書学をテーマにした卒論を教授会に見せて説得し、編入学は許されたものの、それからは落第留年の繰り返し。聖書を読み解くため必修だったヘブライ語やギリシャ語があまりに難解で箸にも棒にもかからない。授業をすっかりサボった結果、見事に落第し留年。神学校の3年では約7か月の住み込み実践研修があるんです。九州の教会だったのですが、半分くらい終わった頃に、そこの指導牧師と信仰や生き方、人との関わり方について本気のぶつかり合いをして大ゲンカをしました。結果、「やってられるか!」と、研修を放り投げて脱走したんです。さすがに見習いが失踪するのは前代未聞の怪事件だったようです(笑)。

 

行方をくらましたまま放浪し、結局、翌年3月の(牧師になる式典である)教職授任按手の間近に神学校へふらりと戻りました。そこで按手に臨む同期生の姿を見て「俺、やっぱり牧師になりたいんだ」と気づき、「志ある者を何とか励ますのが学校の務めじゃないか」と啖呵を切って復学しました。そして再度の実践研修。なんとか拾ってもらった(笑)のは大阪の教会でした。

 

大阪では、「喜望の家」という施設に住み、アルコール依存症からの回復プログラムや、生活困窮者支援としての夜回り活動などを行っていました。そこで感じたのは「彼らには帰る家(home)がない」ということ。建物としての「house」ではなく、心安らぐ居場所としての「home」がない。彼ら一人ひとりと向き合うことは簡単ではありませんでしたが、生きづらさを抱える人にひたすら寄り添い、泣き、笑い、共に祈ることが自分の務めなのだと知らされたのです。

 

そして研修を終えるとき、指導牧師から「僕は落としてもいいと思ったけど、信徒さんが皆、将来この教会に牧師として戻って来てくれてもいいと言って聞かないんや」と言われました。どうしようもない私を、「あんちゃん、がんばりや」と励まし続けてくれた方々の存在がなければ、今の私はなかったでしょう。2019年4月からこの教会へ赴任するのですが、天の導きを信じずにはいられません。

 

現実は決してやさしいものではなくとも、その中で懸命に生きている人たちから教えられ、より深く現実を見つめることで、ほかならない私自身が「神の愛」に捕らえられていることを知ったのです。

生きづらさを抱える人に寄り添い、神の福音を伝えたい

「神の愛」は人を通して伝わる

 結局、3年生を2回やって最終学年になったのですが、そこで書くべき修論が書けなかった。テーマはあったのですが、自分が納得いくものが書けないといって提出を諦めたのです。本来ならば、9月に修論を提出して、ホスピス病棟などでの「臨床牧会訓練」を受ける予定でしたが、前提が崩れてしまったために臨床牧会訓練が受けられませんでした。そこで私は休学し、静岡県にあるデンマーク牧場子どもの家という青少年自立支援施設のご厚意で、14歳から19歳までの少年少女と共に過ごすことが許されました。

 

そこには、親から虐待を受けて言いようのない痛みと悲しみを抱えた子どもたちがいました。彼らを前に佇むばかりの私だったのですが、その中の一人が自死するという衝撃に遭遇しました。そのとき私は、その少年に、すべての人に捨てられ十字架につけられたイエス・キリストのお姿を見たのです! ああ、この死は〈この私のための死〉なんだとキリストから問われた気がしました。「おまえはいったい、誰と一緒に、どこに立って、どっからものを言うんだ?」と。牧師として歩む覚悟が定まったのは、そのときです。

 

その後、なんとか復学して2度目の最終学年でようやく修論を書き上げ、臨床牧会訓練を受け、無事に教職授任按手を受けることができました。多くの人に迷惑をかけつつも支えられ、人の倍の時間をかけて牧師となったのです。

 

ある人に「勉強してはいるけど、福音(救いのメッセージ)にはまったくなっていない」と言われたことの意味を、今も問い続けています。ただ言葉を伝えるのではなく、実際の行動と心で示し、寄り添い、人と共に生き、神の救いを伝えることが「福音」なのだ、と。

 

私は、自分が支えたいと思っていた人たちに気づいたら支えられていた。私を愛し、受け入れてくださったお一人おひとりがあるからこそ、今があります。「喜望の家」での体験が信仰を見つめることにつながり、デンマーク牧場での出会いが牧師としての覚悟を与えてくれた。未熟さを痛感することも多々ありますが、これからも相手に寄り添い、キリストに従って生き、神の福音を伝えるひとりでありたいと、切に祈ります。

神﨑伸(かんざきしん)

1977年生まれ。2000年自由学園最高学部卒業後、ルーテル学院大学文学部神学科神学専修コース(当時)、日本ルーテル神学校に進学し、教職按手を受ける。2007年より日本福音ルーテル知多教会、2014年より賀茂川教会の牧師に着任。同時に、社会福祉法人京都ルーテル会のぞみ保育園園長を2017年3月まで兼務し、現在は同園チャプレン、理事。