本当の心の平安と自由を得るために

本当の心の平安と
自由を得るために

福澤 和雄
Kazuo FUKUZAWA

シーラカンス修道会代表 NPO共働学舎理事長

男子部 25 回生

2018年2月15日談

自由学園・学園長宅にて。

人間ではどうにもならない世界がある

 40年間北海道寧楽の共働学舎(*1)に暮らしていましたが、昨年妻や妻の父親と共に25㎞離れた留萌に引っ越し、修道会を開きました。なぜ修道会を作ったか。ひとつは、自分が信仰や神様について全然わかっていないと気づいたからです。そして、人間ではどうにもならない世界があると思ったからです。

 

共働学舎では理事長をしてきたので、世間的にみればまあまあのポジションかもしれません。でも、社会的な位置は全く意味がありません。問題は本当に心の平安があるのか。ゆるす心と深い同情の心があるか。本当に自由かです。自由になるためにはどうしたらいいのだろう。結論から言うと「とんでもない人と生きるしかない」と思ったのです。

 

実際共働学舎の中にも、ルールを犯したり、ひどく身勝手な人はいました。集団生活なので、そういう人が来れば他の人がまいってしまうこともあるわけです。しかし、イエス様の願いはすべての人を救うこと。聖書には「恩を返せない人に恩を売れ」と書かれています。こちらがいくら尽くしても応えられない人と関わりを持って生きることだ!と。

 

そうであれば、イエス様に頼らないと一日も過ごせない、祈らざるを得ない状況に自分の身を置こう。共働学舎を出て信仰を一歩から見つめようと考えました。

 

40歳のころ、留萌でドイツ人の神父様と出会ったことが大きいですね。洗礼を授けてくださり、一緒にバングラデシュやミャンマーなど海外も回って刺激を受けました。

 

小さな修道会を開いてまだ2年。今は2年生として学んでいます。苦しくてもきっと道は開けるだろう。それがイエス様のみ心でもあるわけだから、すぐに答えは出なくてもあきらめてはいけないと思っています。

 

(*1)共働学舎とは:障害を持つ人、今の社会で生きづらさを抱えている人が農業をしながら共に生活する。長野、北海道、東京など全国5か所に130人ほどのメンバーがいる。

1977年に開設した寧楽共働学舎。自分たちで鉄筋を組むところから母屋を建てた。2005年5月火事で焼失(本人提供)

ないものは作ればいい

 僕は東京日本橋の床屋の息子でね。自由学園時代は生意気な生徒で、バスケットばかりやって何も勉強をしなかった。床屋を継ぐつもりでしたが、あるとき自然の中で生きたいという思いが芽生え、宮嶋真一郎先生の門を叩きました。

 

当時、宮嶋先生はまだ自由学園にいらして英語や登山の先生であり、リーダー的存在でした。僕が卒業すると東京大学付属演習林に紹介してくれて、その縁で林業を志し1年間ドイツへ。帰ってくると「北海道で共働学舎をやらないか」と声をかけられました。前年に信州の共働学舎が始まっていました。

 

28歳で北海道に渡って土地探しを始め、寧楽で共働学舎を開いたのが30歳のとき。まずは自分たちで家を建てました。宮嶋先生は信州でも母屋を建てていたし、図面が引けて大工の技術を持っていたんですよ。

 

僕らはお金がないのでまずは解体材を集め、見様見真似でやって行きました。北海道の友の会(*2)が我がことのように応援してくださり、家を建て替える人を次々に紹介してくれて何軒も壊しに行ってね。宿泊所も提供し、解体も手伝ってくださいました。

 

その後は信州共働学舎や北海道の地元からも人が来て、6人で寧楽共働学舎をスタート。豚を飼い、だんだんに増やしてソーセージ工場も建てました。

 

なかなか現金収入が得られず苦しい生活でしたが、大変でもやめようと思ったことはなかったですね。自由学園で学んだおかげで「ないものは作ればいい」という発想が常にありました。原点は、男子部に入学した時に作った雲水机。ないからあきらめるのではなく、ないものは作る。社会のシステムだって、必要なものは作るしかないんですよ。

 

(*2)友の会とは:1930年、雑誌『婦人之友』の愛読者によって設立された団体で現在国内外に184友の会がある。自由学園の協力団体でもある。

シーラカンス修道会の聖堂。朝4時、ここで祈ることから一日が始まる(本人提供)

その先にあるもの

 今の時代は一人ひとりの霊魂(たましい)が、いい意味で強くならないといけません。社会の現状は、僕らの霊魂の結果だと思うんです。戦争が起きたり、原発事故が起きたり、搾取や殺人が起きたりしてとんでもない世の中だ。でもこれは、僕らの心の反映です。

 

若い時には、欲望にまみれ失敗をごまかすこともあるでしょう。僕自身、心の中では人を罵ったり、殺したりしたこともある。そういう経験を経てようやく「清さ」に向かうようになったんです。人間の心はどろどろだ。しかし、所詮人間は弱いというところで終わっていいのだろうか。諦めず求めるその先に、本当の平安や自由があるのではないでしょうか。

 

自由になりたい、平安でいたい。そのためにはイエス様の教えに従うしかありません。創造主はなぜ人間を作ったのか。聖書には「おまえたちは神の子である」と書かれていますが、それを本当に望んで求めるかどうかです。結局、「人間とは何か?」を一生考えていくのでしょう。

 

以前、宮嶋先生が「共働学舎はキリスト教でなければダメだ」と言われたことがありました。若い僕は生意気だったから「なぜですか?」と聞いたんです。答えは覚えていませんが、最近ようやく僕も「キリスト教でなければダメだ」という思いになりました。キリストの教えが唯一絶対という意味ではありません。他人も自分も生かす道がイエスキリストの生き様にあるからです。

「もっとイエス様と仲良くなり、身も心も軽くなりたい」

福澤 和雄(ふくざわ かずお)

1947年東京生まれ。自由学園卒業後ドイツで林業を学び、1977年に北海道で寧楽共働学舎の開設に参加、40年間寧楽で暮らす。2017年、留萌にシーラカンス修道会を開設。現在も寧楽共働学舎で農業を行う。