ボート競技でパラリンピックへ!

ボート競技で
パラリンピックへ!

有安 諒平
Ryohei ARIYASU

東京パラリンピック代表候補

男子部 65 回生

2019年11月6日談

いつも練習を行っている相模湖で(本人提供)

パラローイングという競技

 障害者ボートは意外に歴史が古く、1913年にイギリスで始まりました。パラリンピック競技になったのは3大会前なので15年くらいですね。競技を大きく分けるとPR1、PR2、PR3の3つがあり、僕が取り組んでいるのはPR3です。

 

PRとはパラローイングの略で、PR1は1人乗り、PR2は2人乗り、PR3は4人+コックス(舵手)。1と2は下肢障害が対象ですが、3は視覚障害2人まで、肢体障害2~4人の混成で、男女2人ずつと定められています。視覚障害男子が2人乗る場合もあるし、男女1人ずつの場合もある。それに上肢障害も下肢障害もいます。いろいろな人が参加できるよう、異なる障害をあえて一緒にしたのでしょう。ダイバーシティインクルージョンですね。

 

そもそもボートは、チームが一つになって息を合わせないと進みません。強くなるには身長や体重を合わせて、出力を揃える必要があります。でもPR3では男女のリーチがまったく違うし、麻痺もあるので揃わないことと言ったらケタ違いです。そこでバランスを取るために、ブレードの長さを変えるなど小さな改造をたくさんやっていきます。

 

力で漕ぎ進めるのは視覚障害の選手、状況判断や目で見て合わせるのは肢体障害の選手。役割分担しながらお互いを補い合って、息を合わせて一つのパフォーマンスを作っていきます。メンバーが一人変わると最初からやり直し。複雑でとてもシビアなスポーツです。

パラローイング代表ユニフォームを着て

那須農場に入り浸っていた高等科時代

 中等科に入学したころは少し目が悪いくらいだったのですが、その後メガネでは治らない病気だとわかり、高1の時に障害者手帳が交付されました。あのころは障害を受け入れられず、ごまかすようにふるまっていた気がします。

 

体操やラグビーも普通にやっていました。ラグビーは体を大きくしてスクラムの重石になったものの、ボールは見えないし敵か味方かもわからない。そのうち球技は避けるようになりました。みんながバイクの免許の話をしている時も、僕は法的に免許取得ができません。社会の側から障害を突きつけられた気がしてショックでした。

 

ふさぎこんでも仕方ないので「まあいいや」と、楽しいことに目を向けました。高2高3の夏休みは、那須農場に入り浸っていたんですよ。牛の世話をしたり炭を焼いたり、自然とたわむれていました。そこでは視力など関係ないので楽しかったんです。

 

学部生になって老人ホームにボランティアに行った時、理学療法士に出会い「自分もこれを仕事にしたい」と、受験して筑波技術大学に入りました。視覚障害のサポートがある大学で、クラスメイトは全員視覚障害者。そこで初めて同じ障害を持つ人に会いました。学内には過去問を音声で読み上げてくれるパソコンや、拡大読書器など便利な機器もありました。共通の理解がある仲間がいる環境はとても楽でしたね。

 

そのころパラスポーツをやっている友人に、柔道に誘われました。6~7年続けて強化指定選手に選ばれたのですが、なかなか代表にはなれません。東京パラリンピック開催が決まり、「どうしても出場したい」と思いましたが、大学院が忙しく実験助手の仕事をしているので、道場での練習時間も取れない。そんな時、東京都の「パラ選手発掘プログラム」を知り、2016年に体力テストを受け、ボート協会に声をかけていただきました。

 

マシンで一人で訓練ができ、一定水準になったら代表のチャンスがあると聞いて、これはいいと思ったんです。大学のボート部にマシンを借り、夜な夜な訓練を続けました。最初の半年で育成指定選手、その後、強化指定選手に入りました。2020年になんとか間に合わせたいと必死でした。

2019年11月、自由学園の学生に「スポーツと生きがい」について講義を行った。

限界まで耐えれば結果が出る

 2019年10月は韓国でアジア選手権があり、銀メダルを獲得しました。今は部屋にマシンを置いて毎日練習、週末は相模湖にチーム練習に出かけています。

 

ボートは自然の中でできるスポーツ。大きな湖などに身一つで乗り出していって漕ぎ進むのは、とても気持ちいいんですよ。PR3が持つ特性としては、多様な選手、多様な人が協力し合って作り上げる面白さもあります。

 

一般的にボート競技は、逆転の少ないスポーツとされ、実力がそのまま順位に表れます。しかしパラは障害の組み合わせも複雑で、逆転を伴う熱い展開が起こることもあり、見応えがあります。ぜひ多くの人に知ってもらいたいですね。

 

競技は、2000メートル出し切りオールアウトの世界。あれほど自分を限界まで追い込むことは、普段はありません。苦しいけれど、チーム全員が「限界」と思うちょっと先まで我慢すれば、結果が出る競技でもある。大学院での僕の研究や実験も、ひたすらチームで根気よく計測を積み重ねていく仕事です。そういう意味で、ボート競技と研究はよく似ているんです。

2019年韓国で行われたアジア選手権の直前練習(本人提供)

有安 諒平(ありやす りょうへい)

1987年、米サンフランシスコ生まれ。自由学園中等科3年の時、黄斑ジストロフィーの診断を受け視覚障がい者となる。最高学部2年時に筑波技術大学に転学。理学療法士を目指すと共に柔道を始める。同大卒業後、筑波大で医学工学連携の研究機関へ。その後、理学療法士として臨床経験を積み、28歳で杏林大学医学研究科博士課程入学。大学院生でありながら統合生理学教室の研究職としても働く。2016年にパラ選手発掘プログラムでパラローイングに出合い、柔道から転向。