第156回 「友なるイエス」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第156回 「友なるイエス」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第156回 「友なるイエス」

2020年6月30日

寂しい気持ちが風のように忍び込んだ時に思わず口ずさむ讃美歌があります。
讃美歌312番です。

慈しみ深き友なるイエスは 
罪、咎(とが)、憂いを 取り去り給(たも)う 
心の嘆きを包まず述べて 
などかは降(おろ)さぬ 負える重荷を

結婚式でも、又葬式でもこの歌が歌われることがあります。よく知られる讃美歌のうちの一つであることは間違いありません。

心に響くのは歌い始めの「慈しみ深き友なるイエス」の部分です。アイルランド人が書いた原詩にも「ジーザスはフレンド」とあります。フレンドは、古英語では、愛するという意味だそうです。ラテン語では「アミークス」これも愛するという意味で「アモー」からきているようです。

「アモーレ」も同源です。「アモーレ アモーレ アモーレミヨ」と叫ぶ、イタリア映画を思い浮かべるかもしれません。「メイト」も「クラスメイト」などと友人として使われますが、語源は「ミート」肉だそうです。フレンドと呼ぶ、友人には、「愛」という言葉がその底で光り輝いているんですね。

315番を歌うと、少し恐れ多いような気持になります。「神の子」であり、主としてあがめるイエスを友と呼ぶような存在ではないと感じるからです。

この讃美歌で思い出す、事柄がもう一つあります。それは、「同行二人」という言葉です。四国巡礼の遍路の時に被る笠にこの文字が書かれています。春の初めに四国を旅したことがあります。この時に大変驚いたのは、お遍路に非常に多くの若者が来ていることでした。そしてその若い人たち(ほとんどが一人で来ているのですが)が、鉦をたたき御詠歌を歌っているのです。長く少し間伸びをしたように歌うのです。「ありがたや行くも帰るもとどまるも 我は大師と二人連れなり」と。

一人自分で歩く時も、離れずに大師が一緒だというのです。大師は、弘法大師、空海です。ただひたすら一緒にいるというのです。何を語り、何を教え導くというのではないのです。黙々と歩いているけれども一人ではないというのです。

「友なるイエス」という言葉から、御詠歌を思い出すなどと言うのは、敬虔なクリスチャンからも、まじめな仏教信徒からもお叱りを受けるかもしれません。しかし、私はこの讃美歌を聞くたびに「同行二人」の文字が浮かぶのです。

フランスの詩人、随筆家のアベル・ボナールは友情について、「友人同士は完全な平等のうちに生きる。この平等はまず第一に、彼らが会ったときには社会上のあらゆる相違を忘れるという事実から生まれる」と記しています。

友人関係と言うものが、まったく平等であるというのです。友という存在が、「平等」という理念を有していることは確かです。友人関係に身分や貧富の差が介入するなら、大切な人権の平等性は保ちえません。社会的な地位との相関関係とか、貧富の差とか、そのような差別をごく自然に拒否できる今があるような気がします。

イエスは、「私はあなたと同じ位置にいるんですよ」そんな風に語りかけているような気がするのです。

「どのような時にも、友を愛すれば、苦難のときの兄弟が生まれる」

これは『旧約聖書』箴言・17章17節の言葉です。私たちは、コロナ禍の中で今だかって経験したことのない時間を過ごしています。確かにそれは苦難の時です。こんな時に、「箴言」のこの聖句が胸に刺さります。

このような苦難の時だからこそ、本当の友が生まれるというのです。

私たちにとって、「友」とは、何でしょうか。友情とは何でしょうか。後期高齢者になった私はしばらくそんな問いかけを忘れていたようです。

デンマークの生んだ小説家アンデルセンにこんな言葉があります。

「山は遠ざかればますますその本当の姿を見ることができる。友人にしてもこれと同じである。」

思い出の詰まった友達に今こそ手紙を送ってみようかなと思いました。

でももっと大切なことは、今ここで苦難を共にしている「友」の新たな「愛」を見出して兄弟への歩みを続けることなのだと思います。

 

【追記】

さくらの花が散った頃、4月1日の会議に参加して以来、今日6月30日まで、学園に行ったのは、6月半ばの1回でした。春の終わりからアジサイの散り始めた約90日間、まったくうそのような時間でした。いつもの季節なら、連休中くらいに新学期の疲れが出て熱を出すのが毎年の例ですが、今年は気が張り詰めていたせいでしょうか、風邪もひきませんでした。慣れないオンライン授業も、受講学生の手助けでようやく半分を過ぎました。例年なら、10分ほど遅れて教室に入り、10分ほど早く講義を終え、冗談で話が横道にどんどん入って行き抜けられなくなり、立ち飲みでも行こうかということになるのですが、今年はそんなこともなく、まじめ?一方で予習したノートを読み上げるといった感じです。学生もほとんど全員が無遅刻無欠席です。

今年の講義は、個人的に集めていた古い宗教映画のDVDを見ながら、如何に宗教宣伝映画がつまらないかを、文献を読みながら放埓に考えたいという意欲的な?試みだったのですがそれも出来ず、ほとんど読書案内風の知識伝達講義になっています。

明日から7月、そろそろ、もぞもぞ、動き出そうと思っています。読んでは旅に出るという今までのスタイルを戻して行こうと思います。

7月3日発売『東京人』8月号に、コロナ禍における私の発言が出ます。店頭ででも御笑覧ください。

尚、今回のブログは、20日のZOOM保護者会でお話しした一部です。保護者会だよりには、もう少し長く書いたものが出ます。ご参照ください。

 

2020年6月30日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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