第120回 北条氏綱/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第120回 北条氏綱/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第120回 北条氏綱

2019年2月18日

北条氏綱は、戦国大名小田原北条氏の二代目の当主です。父は、初代の伊勢宗瑞(北条早雲)、子には三代当主の北条氏康がいます。早雲や氏康に比べれば、やや知名度は低いかもしれませんが、北条と改称しその名を知らしめ、関東一円を領有し一時代を築いた人物として高い評価が与えられるでしょう。

氏綱が、赤坂、一ツ木に名を残しているのは、大永4年(1542年)の江戸城攻略の逸話によるものです。
この逸話には、江戸城を築いた太田道灌にまつわる話が背景にあります。太田道灌は、文武に秀でた武将でその名声は広く関東に聞こえた人物であったと云います。その道灌は、江戸築城後、下総を平定するなど主家扇谷上杉家に仕えていたのですが、上杉家によって罪を着せられ謀殺されました。この後も、太田家は上杉氏に仕えていたのですが、積年の恨みを抱いていたようです。氏綱が、江戸城を攻略した時に、城主であったのは上杉朝興です。そして、朝興の下には、道灌の孫の太田源六郎資高と源三郎資貞が家老として仕えていました。

当時の様を記した軍記には、次のように戦況を記しています。
小田原勢三千余騎は、渋谷方面に陣を敷き、上杉勢を挟み討ちにしようとしました。そこで朝興が上杉方の加勢のために江戸城から出たところ、家老の太田兄弟が敵に内通し江戸城に北条軍を入れました。そのために朝興は江戸城を開け渡さざるをえなくなり、川越城に敗走します。そして氏綱の兵は、「その後江戸城に打ち入、敵首ども実験ありて、一ツ木原へ旗ども打ち立て、法の如く勝鬨(かちどき)を上げる事三ケ度なり。」(『相州兵乱記』、と勝利の勝鬨を赤坂一ツ木で上げたと云うのです。

この結果、太田道灌が築城して67年後江戸城は一日で落城し、北条氏の所有となります。氏綱は内偵の功労のあった太田資高には、氏綱の娘を嫁がせて保護したそうです。
北条氏はこれを機に勢力を拡大し、伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野・下野の一部に及ぶ支配権を得たのです。この後、天正18年(1592年)豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が壊滅するまで、ここ江戸、赤坂は北条氏の治政がひかれたのです。
一ツ木は、北条氏にとってまことに縁起のいい場所だったのです。
因みに、一ツ木は、平安時代から栄えていた古い町だったと云い伝えています。一ツ木の語源は諸説あります。例えば文字通りに大きな一本の木があったとか、榎の大木があって一木薬師と呼ばれていたとか、又「人継ぎ」が本来の云い方であるなどとも云います。

港区には、北条氏ゆかりの寺と文書が残されています。麻布の善福寺には、一向宗対策で取り交わした朱印状が残されています。又赤坂7丁目の種徳寺にも北条氏の検地帳が残されています。
「勝って兜の緒を締めよ」とは、慢心を諫め得た言葉ですが、これは氏綱が残した言葉だと云われています。この他、北条家に引き継がれた言葉には、「大将のみならず部下も義を守らねばならない」「役人は偽ったり諂うことなく身を慎め」「倹約を守れ豪華な生活は民の生活を貧困にする」などとあります現代への警告にもつながると云っていでしょう。
又、「侍中より地下人、百姓等に至迄、何も不便に可被存候。惣別、人に捨りたる者はこれなく候。 (身分の低い者や百姓に至るまで、何も不便なことがあってはならない。捨てられてよい人などない。) と強弁しています。不便は、不憫です。憐れむべきことがあってはならない。
いかなる人材も不要なものはいない、人はすべてこの世に必要とされているのだという教えです。北条氏の善政として語り継がれた言葉です。我々も肝に銘ずべき言葉です。

 

【追記】
これは、現在発売中の『東京人』3月号「赤坂人物散歩」からの転載です。「勝って兜の緒を締めよ」「役人は身を慎め」「上に立つ者は清貧であれ」そしてすべての人材は必要な存在であるとの教えは今の時代にも必要なものであり、忘れ去られているように思います。因みに「酒は朝酒」などという教訓も北条家にあります。朝なら飲み過ぎることはないということのようです。ちょっとついていけない教えですが、この歳になれば「朝寝朝酒朝湯」などと云った日が半年に一日くらいあっても悪くはなさそうです。

 

2019年2月17日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

カテゴリー

月別アーカイブ