第112回 品川クジラ散歩/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第112回 品川クジラ散歩/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第112回 品川クジラ散歩

2018年11月9日

秋雨の中、品川宿での散歩会。クジラ到来の話をした。

今から210年前、武州荏原(えばら)郡品川猟師町。江戸前の風が夢を運んできた。
寛政10年(1798)5月1日。空は昨夜来の嵐がうそのように晴れている。
朝6時前、漁師達が騒然として沖を見ていた。潮煙が上がる。
「迷い鯨だ!」
漁師達は使い慣れぬ銛や包丁を手にしながら小舟に乗り込んだ。その数は100艘を越えた。

「朔日明六半時頃海表騒敷御座候ニ付、漁師共罷出見受候処、地先十町程も沖合にて潮煙立候ニ付船ニ乗見受候得者鯨ニ有之候」(「寛永録」六・江東区資料)
世に言う「寛政の鯨」品川騒動の始まりである。

京浜急行北品川駅で下車。開かずの踏切を渡って旧東海道に出る。
品川宿。ジョージ秋山の35年にも及ぶ長期連載漫画「浮浪雲(はぐれぐも」の舞台。
テレビでは主人公雲を渡哲也・ビートたけし、女房のかめを桃井かおり・大原麗子が演じた。情にもろくて天真爛漫、底抜けのお人好しおかめさんに出会えそうな気がする。
今もほんわかとしたいい町である。

映画「幕末太陽伝」登場の品川遊廓跡「土蔵相模」の前を過ぎて、海側に曲がると、遊覧の屋形船がもやう船だまり。潮の香りの先は、広重描く江戸百景の一つ洲崎(すさき)弁天、利田(かがた)神社。

ここに鯨塚がある。

漁師達と鯨の格闘は、約6時間、昼過ぎまで続き、天王洲の浅瀬に追い込みようやく仕留められた。体長9間(約16.2m)、高さ1丈(約3m)のシロナガスクジラであった。

天王洲橋の向こうの東京海洋大学。表玄関からすぐの所に鯨ギャラリーがある。ここに標本展示されているのは、アラスカ沖で捕獲されたセミクジラ。体長17.1m。圧倒される大きさだ。「寛永の鯨」もほとんど同じ。

鯨は、浜離宮まで曳航され将軍家斉が上覧後、見せ物になり、その後で胴の部分が41両3分(約200万円)で落札され、捕獲費用を除いた分が漁師達に分けられた。

鯨塚は頭の部分が供養されたものである。
鯨塚には、90歳まで元気溌剌、精力絶倫の当代人気の俳人、谷素外の句が納められた。

江戸に鳴る冥加やたかしなつ鯨

鯨は神になったのである。冥加は神様仏様が人知れず垂れ給う加護のこと。

「見物貴賤蟻のごとし。浜辺より二三町も隔てたれば船をかり切て行もあり、乗合船あれど価ひ高きこといふばかりなし、されどはるばる品川迄至りて間近く見らざらむも其栓なければ、価の高下を論ぜず」(「梅翁随筆」)

見物の船賃は始め24文であったが高騰して100文にまで上がった。諺にある「鯨一頭七里の潤い」は眼前の景であった。

品川歴史館所蔵、勝川春亭の錦絵「品川沖之鯨高輪ヨリ見ル図」は、茶店や乗合船に品川宿の遊女を配してあでやかに描きその様を伝える。この絵の2頭の鯨はいささか疑問。だが、直接見に来られなかった人々のために書かれたという、「海鰌談」には、浦賀沖に夫婦の鯨が長年住み着き、品川沖の鯨は、その雌の方であるという。浮世絵は虚実綯い交ぜにした<もの語り絵>。1頭は妻を慕う夫の鯨とも解けそうだ。

江戸のメディアも騒ぎ立てた。

滝沢馬琴は黄表紙に仕立て「鯨尺品革羽織(くじらざししなかははをり)」を寛政11年春に刊行。熊野の鯨取り「一のもりりやう四郎」なる人物が、江戸見物に行くために、青竜刀のような釣り針に150俵の飯をつけ、鯨を釣り上げ?その鯨を池に放ち見せ物にして大儲け、遊女と遊んでいるところを、釣られた鯨の息子に飲み込まれ、「よくよくみれば座敷と思ひしは鯨の口穴、布団と見しは鯨の舌」、鯨はうろたえる二人を潮吹き穴から吹き出し父鯨の仇を討つ。とこれは高輪の心太(ところてん)店でのうたた寝の夢といった話。

十返舎一九も、「大鯨豊年貢(たいげいほうねんのみつぎ」を同じ11年に刊行。熊野の浦の鯨が竜宮の王様八大竜王の怒りを買い、ふぐの乙姫に化け物の見越しの入道を帆柱に品川沖に現れ、潮吹きで黄金を撒き散らすと言った話である。

馬鹿げた途方もないほら話と、目くじらを立てるようでは江戸の心はわからない。これは大人の漫画。寛政の改革による倹約・引き締めで萎縮を余儀なくされていた江戸っ子の夢物語である。

当時、この辺りは海に突き出た小さな半島であった。半島の先に、幕末江戸の防衛のために「品川砲台」が築かれた。利田(かがた)神社から2,3分で台場小学校、ここがその跡地である。校門の前に昭和32年まで、台場にあったに品川灯台のレプリカがある。

山の手通りを越えて寄木(よりき)神社。猟師町の鎮守。境内には本山荻舟(もとやまてきしゅう)撰文の「江戸漁業根源の碑」がある。荻舟はこの町の人。天下随一の料理博物書と評価の高い「飲食事典」の著者。
それに、東京湾でとれたハマグリとシャコを深川と品川が仲良く分け合って、「ハマグリを用いたのを深川めし、シャコを用いて品川めし」と記されている。
今品川飯は深川飯ほど知られないが、小ぶりのシャコ(穴シャコ)を玉子でとじたあっさりした丼である。この穴シャコで釣った鰻が江戸前最上のものだ。

品川区民公園の「クジラの噴水」。これも寛政の鯨をモチーフにしたもの。それを左手に、第一京浜国道を旧羽田道に下って貴船神社へ。 ここには、漁業納畢之碑と京浜運河建設計画による漁業権放棄記念に納められた灯籠がある。幕末の台場建設、戦前戦後と継続された京浜運河の建設、さらに続いた高度成長の埋め立て地拡大。

江戸前の海は抜け殻のようになった。
そして昭和37年浅草海苔場は解散、漁場放棄に至ったのである。

今、モノレール下の京浜運河は花の散歩道として人々に愛されているが、、、、一句浮かぶ。

菜の花や鯨もよらず海暮れぬ   蕪村

 

2018年11月9日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

 

カテゴリー

月別アーカイブ