第110回 最高学部保護者礼拝「愛は寛容である。」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第110回 最高学部保護者礼拝「愛は寛容である。」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第110回 最高学部保護者礼拝「愛は寛容である。」

2018年10月18日

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。(コリント人への手紙I 13:4〜8)」
*『新共同訳 聖書』では、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。・・・」などと異なっています。

何度も読んで来た聖書の箇所ですが、最近この言葉が突き刺さるような思いがするのです。

ここで語られる愛は、ギリシャ語では「アガべー」です。愛を示す言葉としては、性的な愛「エロス」、家族愛の「ストルゲー」、友への愛「フィリア」という表現が使われていますから、性愛・家族愛・友愛とも違ったさらなる愛への導きで、この箇所が著者パウロによって使われているのだと思います。

宗教は、一般論として言うならば、不寛容であると思います。自分の信じるものに最大の価値を置くことによって信仰が成り立っていると云うこと、最大の価値を置くことによって他者を排斥する。宗教論争さらに宗教戦争でもこの不寛容さが原因であるように思います。

しかし、ここで強調されているのは、「寛容」です。唯一の神を信じ不寛容に見えるキリスト教が寛容こそ大事だと云っているのです。極めて矛盾しているのですが、私にはこれがよりすがるべきキリスト教への道のような気がするのです。

少し話を変えながら、この一見相互に矛盾するベクトルを私なりに考えてみたいと思います。

大学を卒業して、今年で50年になりますので、色々な所で50周年の集いがありまして若い日のことを思い出す機会が増えています。

私は、大学3年の時に、文学部に編入しましたが、1,2年は法学部でした。創設間もない法学部のシンボル的教授は、宮沢俊義教授でした。宮沢教授は、新憲法発布においてもっとも大きな役割を果たした人物として著名でした。新憲法の象徴的存在と云っても云いでしょう。
教授は、落語が大好きだったそうですが、講義の間合いは見事なものでした。又野球が大好きで、後年にはプロ野球のコミショナーもつとめました。飄々とした静かな授業でした。ワルが沢山詰まっている大教室でしたが、この時だけは誰も無駄口をたたくようなことはありませんでした。

宮沢俊義の評価については、諸説あります。身近な「ウイキペディア」は、「学説」の項目で、最初に「学説は時期とともに変節を繰り返した」と記しています。戦前は、進歩的憲法学者として美濃部達吉の天皇機関説を支持し、反共右翼思想から激しく攻撃されました。しかし、その後には、大政翼賛会の存在を認容し積極的に擁護し、神権主義に変化しています。そして新憲法についても、始めは新憲法不必要論を展開しますが、八月革命説を提唱し、国民主権を強調して新憲法の正当性を強調します。岩波新書『憲法講話』では、天皇はただの「公務員」と述べ、又天皇「ロボット説」などを述べて物議をかもしたこともありました。

宮沢俊義評価について、私は専門家でもありませんから、今ここで私が云々できる問題ではありません。何も書き加えることもありません。ただ、講義中のこの言葉だけは記憶にとどめておきたいのです。

「日本は負けたんだよ。それを忘れちゃいけないよ。(エー・・・・、しばらく間)敗けたからこそ持てる誇りもあるんだよ。」(落語研究会の先輩曰く、あれは古今亭志ん生の調子だよ、と解説)

「賭博黙示録カイジ」の一コマに合わせるなど不謹慎かもしれません。「敗者の誇り」は9月の末、アメリカの高校生にワンピース(108回ブログに少し書きました)を語った時にも、日本のアニメの面白さの例としての名セリフで云い添えたものです。

18歳の自分は、けっして大学に入学したことが誇りではありませんでした。父を亡くし故郷に帰る家もなく、一浪してやっとの思いでの合格でしたから、どこかに負け犬のような気持ちがありました。
そんな時でしたから、「敗者の誇り」という逆説的な言葉は身に沁みる思いがしました。

昭和43年(1968年)卒業までの3か月。1月、チェコ、プラハの春。共産主義体制の雪解け。オリンピックの重圧に自殺を選んだ円谷幸吉。佐藤栄作首相の非核三原則宣言。東大医学部無期限ストに突入。南ベトナムで共産ゲリラ蜂起。2月。べ十ナムにおける、フォンニィ・フォンニャットそしてハミの虐殺。成田空港阻止三里塚闘争。3月ベトナム、ソンミ虐殺事件。アメリカベトナム北爆停止命令。テレビアニメ「巨人の星」放送開始。

日本は、この年、国民総生産GNPは、世界第二位まで上り詰め経済大国を誇示します。又、この年5月には十勝沖地震最大震度7.1を記録、三陸の大槌湾では想定外の5.7メートルの津波が観測されます。

敗者として忘れてはならないことが多くありましたが、それらは走馬灯のように消えていきます。敗者の持つ誇りが生み出すものが、愛の寛容さです。イエスは勝者ではありません。十字架につけられた敗者であるがゆえに誇りを持っていたのです。

私たち日本人は、否、私は自分、日本人であることを誇り、自慢し、相手を見下すことにならされて寛容さを失ってきたのかもしれません。

最近、小島慶子さんのエッセイを読みました。オーストラリアでの体験をつづりながら、日本への移民に関して述べたものです。日本人は、受け入れることを考えて来ましたが、受け入れられる側の気持ちをどれほど考えてきたでしょうか。受け入れられる側に真摯に向き合うことが欠如していた、読後そんな風に私には感じられたのです。

寛容の持つ愛を忘れ、不寛容な自分が誇りを持つと同時に高慢と偏見を助長してきたのです。

小島さんは次のように結びます。これは留学生を迎える基本的姿勢でなければなりません。もちろん外国からの労働を必要としている現実の中で我々が突き詰めるべき問題です。

「どうか日本も、日本語を学ぶ人に寛容な社会であってほしいと思います。つまり日本語の母語話者でないことをいちいち珍しがらない社会になるといいなあと思うのです。このところ、外国人の店員に対する差別が問題になっていますよね。「ちゃんと日本語喋れ」「何言ってんだかわかんないよ」などの暴言を吐く人がいるというのです。言われた人はどれほど悔しく、悲しいことでしょう。ただでさえ慣れない外国暮らしなのに、その孤独は計り知れません。 」

「日本語を学ぶ人が気楽に日本語が喋れる世の中は、相手の言うことに耳を傾ける世の中です。この人は何を言おうとしているのかな、と相手の立場に立って想像するのが当たり前の社会。それは相手が赤ん坊でも、聴覚に障害のある人でも、病気や加齢で意思表示が困難になった人でも同じこと。丁寧に語り、傾聴することが人間関係のベースになっている社会です。私はそういう世の中に暮らしたいな。 」

パウロのメッセージはけっしてこの一文と無関係ではありません。相手の立場に立って考えると云うことが、教会の一致に悩み、不道徳が慣習化したコリントの信徒たちに寄せられたメッセージです。それは現代のわれわれにも向けられたメッセージです。

寛容が得るものは平和への道です。

もう一箇所、聖書の箇所を引用して、終わります。イエス、処刑の直前、誇りに満ちた言葉です。

「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイによる福音書26章・52節)

 

2018年10月18日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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