第109回 江戸吉原開基400年記念号『東京人』11月号/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第109回 江戸吉原開基400年記念号『東京人』11月号/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第109回 江戸吉原開基400年記念号『東京人』11月号

2018年10月9日

江戸吉原開基400年を記念した、現在発売中の『東京人』11月号でタレントのタモリ氏と対談しています。
タモリ氏とは、2012年にNHKの番組『ブラタモリ 吉原編』でご一緒して以来の御縁です。その後、神田の本屋さんで八木書店が企画した『江戸吉原叢刊』の刊行記念のロバートキャンベル氏と私の対談にも聴衆の一人として偶々来ていただいたことがあります。

吉原の印象は、『ブラタモリ』以来大きく変わったと云われることがあります。もちろん風俗街として今も盛んなのですから、軽々しいことは云えませんが、その後、私もNHKの『ディープ東京』や、民放の『歴史捜査』・『江戸のススメ』などで、片岡鶴太郎氏、片岡愛之助氏らと何度か、吉原の企画ものをやりました。吉原を一つの文化としてとらえることが近年盛んになってきたように思います。
タモリ氏の軽妙な会話の中にひそむ、何とも言えない味わいが、一見暗澹たる歴史のみに目が向けられる吉原に現代から救いを与えているのかもしれません。

笑福亭鶴瓶氏のプロヂュースで作られた歌舞伎『山名屋浦里』が、タモリ氏のアドバイスで作られた話。またこの歌舞伎が、ブラタモリでの吉原行きがきっかけだったなどと話が弾みました。
落語と歌舞伎の相性をうまく生かして、思いっきり笑って、思いっきり泣けるような芝居を作りたいものですねなどと放談。放談ついでに、タモリさんに好色一代男「世之介」を演じてほしいものですねなどと注文。古い話ですが、今まで市川雷蔵(長谷川一夫も演じたかな)では、いい男すぎる、ロックと三味線を綯い交ぜに宇崎竜童氏も演じましたがちょっとおもくれた感じでした。
人形町にあった元吉原が、湿地帯の周囲を掘り下げて盛り土をしたので丸形をしていたのに対して、新吉原では、他所(荒川開削工事)から持ってきた土で固めたので、きれいな方形であったなどと云う、タモリ氏得意の地形ウンチクでも話が続きました。
タモリ氏は、私より一つ年下ですから、ほとんど同じ世代を共有しています。ドキドキしながら、洋画のラブシーンやヌードを見たのも同じ頃です。吉永小百合が、赤銅鈴之助の恋人?役として出演したラジオにかじりついた話も懐かしく共有しました。

「元吉原雑記」と題してエッセイも書いています。
人形町駅から浜町に向かうと「大門通り」がありますが、これは元吉原の大門のゆかりによるものです。浅草の方の今の吉原は新吉原と呼んでいます。
幕府が開かれた当時の江戸は、新都市建設のラッシュ。蟻の如く集まった男たちと湯女を初めとする勝手気ままな女達との間で買売春が横行しました鉱山の自由という言葉がありますが、まさに「江戸の自由」が展開したのです。元吉原はこの放埓自由な風俗を取り締まることを理由に始まります。
しかし、この請願にはなかなか幕府の許可が出ませんでした。慶長10年(1605年)に最初の請願が出てから、ようやく幕府の認可が下りたのは、元和3年(1617年)です。
遊女屋の売春への自己規制と武士の倫理の範となるべき天下の江戸で公然と遊郭を設置することに対する幕府のためらいがこの12年間にあったのです。
多くの地方の城下でも、武士が公然と遊郭に通うなどと云うことは許されていません。

昭和20年敗戦の日から、5日後に政府の命令で遊郭が復活しました。それが近代の倫理です。派兵の下に慰安婦を置くことが常態化するなどとは、富国強兵のたどった倫理の劣化です。近代は論を待たず弱者の犠牲を先行させて歴史を刻んだのです。ここに文化は生まれません。
苦界10年、遊女は縛られたとするのが通説です。しかし吉原開基当時の年季は3年、幾分かの自由意思も認められていたのです。その故にこそ、張りと粋の文化が生まれたのです。

元吉原の命運は短く、明暦3年までの40年間で幕を閉じました。
吉原開基について考えることは、遊郭文化の根源を考えることです。この特集は、新たな視点を吉原に向けるきっかけとなるはずです。

 

この他、この号では、赤坂離宮を設計した片山東熊についても小文を記しています。東熊は、最年少の長州奇兵隊の一員であり、山縣有朋の恩顧をうけた人物です。

この調査の折から、羽仁吉一の先祖の長州における立ち位置のことが気になっています。長州は、他藩にもまして、勢力闘争の激しかった所です。何故、吉一が吉田松陰ではなく、広瀬淡窓に傾倒したのかなどと考えを連ねています。そして、複雑な様相を呈した南部八戸藩を出自とするもと子との出会いが如何なる思想的な意味を持っていたかなどと・・・。「自由学園創立前夜の思想的基盤」とでも題した話でも出来ればと考えたりしています。お知恵をお貸しください。

尚、今月号には、以前、自由学園にも来ていただいた、学習院大学の赤坂憲雄氏の「武蔵野は移民の大地である」が掲載されています。氏の武蔵野学の提唱は、自由学園にとっても刺激的な論考です。

 

2018年10月9日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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